くのである、と。私はそんな甘つたるいことは考へてゐない。私の知るソーニャやマリヤはみんな淫蕩の血にまみれ、そして嬉々としてゐるのである。私のソーニャは踏みつけられたり虐げられたりはしてをらず、ノラの如くにとびだして、然し汚辱に向つて自らとびこんできたのである。まさしく自由と放恣とはきちがへてゐるのである。
 だがこの世には真実自由なるものも、真実放恣なるものも存在してはゐない。自由といふものが如何に痛苦にみたされたものであるかは、我々芸術にたづさはるものが身にしみて知つてゐる。芸術の世界に於てはあらゆる自由が許されてをるので、否、可能なあらゆる新らしきもの、未だ知り得ざるものを見出し創りだすことをその身上としてゐるのである。才能には何の束縛もない。だが自らの才能に於て自由であり得た芸術家などは存在せず、真実自由を許され、自由を強要されたとき(芸術は自由を強要する)人は自由を見出す代りに束縛と限定を見出すのである。
 私が戦時中嘱託をしてゐた某映画会社では、演出家達は組合制度だか順番制度だかそんな風なものをつくつて、各自の才能の貧困をそれによつて救済するやうな組織をつくつてゐたやうである
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