をもちだした。
「実は神田の古本屋で、神尾君の蔵書を一冊みつけましてね、買いもとめて、形見がわり珍蔵しているのです」
彼はカバンからその本をとりだした。
「神尾の本は全部お売りになったのですか」
夫人は本を手にとって、扉の蔵書印を眺めていた。
「神尾が出征のとき、売ってよい本、悪い本、指定して、でかけたのです。できれば売らずに全部疎開させたいと思いましたが、そのころは輸送難で、何段かに指定したうち、最小限の蔵書しか動かすことができなかったのです。二束三文に売り払った始末で、神尾が生きて帰ったら、さだめし悲しい思いを致すでしょうと一時は案じたほどでした」
「欲しい人には貴重な書物ばかりでしたのに、まとめて古本屋へお売りでしたか」
「近所の小さな古本屋へまとめて売ってしまったのです。あまりの安値で、お金がほしいとは思いませんけど、あれほど書物を愛していた主人の思いのこもった物をと思いますと、身をきられるようでしたの」
「然し、焼けだされる前に疎開なさって、賢明でしたね」
「それだけは幸せでした。出征と同時に疎開しましたから、二十年の二月のことで、まだ東京には大空襲のない時でしたの」
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