前の本だよ。日本上代に於ける社会組織の研究というのだ」
本の名を言う矢島は顔をこわばらせてしまったが、タカ子は静かに本をなでさすっているばかりである。
「僕の本はみんな焼けた筈なんだが、どうして一冊店頭にでていたのだか不思議だね。売ったことはなかったろうね」
「売る筈ないわ」
「僕の留守に人に貸しはしなかった?」
「そうねえ、雑誌や小説だったら御近所へかしてあげたかも知れないけど、こんな大きな堅い本、貸す筈ないわね」
「盗まれたことは?」
「それも、ないわ」
すべて灰となった筈の本が一冊残って売られている。その不思議さを、タカ子はさのみ不思議とうけとらぬ様子で、たゞ妙になつかしがっているだけであった。
「あなたが、どなたかに貸して、忘れて、それが売られたのでしょう」
と、タカ子は平然と言った。
もとより、その筈はあり得ない。出征直前にわが家へ戻ってきた本である。
タカ子は失明している。目こそ表情の中心であるが、その目が失われるということは、すべての表情が失われると同じことになるかも知れない。すくなくとも、目のない限りは努力によって表情を殺すことは容易であるに相違ない。タカ子の
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