ぬ者の中には、決してラムネ氏がひそんでゐないといふことだ。

       下

 今から三百何十年前の話であるが、切支丹《キリシタン》が渡来のとき、来朝の伴天連《バテレン》達は日本語を勉強したり、日本人に外国語を教へたりする必要があつた。そのために辞書も作つたし、対訳本も出版した。その時、「愛」といふ字の飜訳に、彼等はほとほと困却した。
 不義はお家の御法度といふ不文律が、然し、その実際の力に於ては、如何なる法律も及びがたい威力を示してゐたのである。愛は直ちに不義を意味した。
 勿論、恋の情熱がなかつたわけではないのだが、そのシムボルは清姫であり、法界坊であり、終りを全うするためには、天の網島や鳥辺山へ駈けつけるより道がない。
 愛は結合して生へ展開することがなく、死へつながるのが、せめてもの道だ。「生き、書き、愛せり」とアンリ・ベイル氏の墓碑銘にまつまでもなく、西洋一般の思想から言へば、愛は喜怒哀楽ともに生き/\として、恐らく生存といふものに最も激しく裏打されてゐるべきものだ。然るに、日本の愛といふ言葉の中には、明るく清らかなものがない。
 愛は直ちに不義であり、邪《よこ》しまなも
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