ヨーロッパ的性格 ニッポン的性格
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)勝鬨《かちどき》
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(例)大友|義鎮《よししげ》
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(例)ひらめき[#「ひらめき」に傍点]
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ヨーロッパとニッポンが初めて接触いたしましたのは、今から四百年ばかり前のことでありますが、その当時に、ニッポンの性格とヨーロッパの性格とが引き起こした摩擦とか、交渉とかいうものを私の見た眼から、皆さんにお話してみたいと思います。
具合のいいことに、その当時ニッポンへやって来ました、皆さん御存知のいわゆるキリシタン・バテレンという、あれはカトリックのほうの宣教師なのでありますが、神父と申しますような人たちが、それぞれ故国へ手紙をやったり、報告を出したりしていまして、これらが今日残っておりまして、当時の事情を知るために非常に大切、貴重な文献となっております。
ニッポンにも、この当時の事件とか事情とかを書いたいろいろの手記、記録というものがありますけれども、残念ながらニッポン製の資料というものは役に立たないのであります。殆んど駄目であります。
それと申しますのが、ヨーロッパなどの外国の人たちの観察の方法と、ニッポン人の観察の仕方とは、本来的に非常に差異がありまして、ニッポン人はどうも物事を大いに偏って見る傾向がありまして、たとえば烈火のごとく怒ったとか、ハッタとにらんだとか、そんな風に云ってしまって、それだけで済ましてしまうという形が多いのであります。物事をそれらの物事そのものの個性によって見る、そのもの自体にだけしかあり得ないというような根本的にリアルな姿を、取得しておらないのであります。そういうことが、まことに不得意なのであります。
でありますから、実例をとって申しますと、織田信長が本能寺で殺されました時のことを、「信長記」という本がありまして、それに書いてあるのを読んでみますと――
「明智光秀の軍隊はやにわに亀岡から下りて参りまして、本能寺を取り囲んで、ドッとばかり勝鬨《かちどき》をあげて、弓、鉄砲を打ちこんだ。本能寺のほうでも眼をさまして、中から豪傑連中が飛び出して、明智勢のなかに斬り込んだ。初めのうちは、明智勢がたじたじとなりましたが、そのうちにそれらの連中が討死しますと、だんだん寄手の勢いが強くなった。織田信長までが寺の廊下へ現われまして、片はだ脱いで槍を持ち出して、近づくやつを突き落した。そのうちに矢が片腕に当りましたので、部屋の中央にもどって来て、火をかけて自殺した」
――こんな風に書いてあるのであります。
ところが、この当時に、この本能寺という寺のあった所から、約一丁ばかり離れた場所に、京都に於けるたった一つのキリシタンの教会があったのでありますが、この教会におりましたヨーロッパ生れの神父たちは、真夜中に戦争らしい物音に眼をさましたのであります。それからまァ、いろいろと避難の用意などをあれこれと致しまして、夜の明けるのを待ちまして、もっともたゞ黙って待っていたのではありません、尽せるだけの手段を尽してあらゆる方面から情報をあつめたのであります。可能な限りの探査を行ったのであります。全然、落ちついていたわけであります。これらの人々によって収集されたニュースは、適当にまとめられまして、直ちにそれぞれの本国に報告されたのであります。
その報告によりますと、こういうことになるのであります。――
「明智の勢は、本能寺を取り囲んで、それから本能寺のなかに乗り込んで行ったのではなく、本能寺のほうでは謀反などという嫌疑すらも持っておりませんでしたので、誰も手向ってゆく者がない。どこに一人も抵抗する者もなく、どんどんと這入って行って、信長のいるらしい部屋のところまで来てしまった。信長は顔を洗って手拭いで拭いていました時に、そこに、先頭にはいって来た奴が弓を射った。その矢が背中に刺さりましたので、ぐっと振り向くとその矢を抜きとって、薙刀《なぎなた》をとるとしばらくの間戦いました。そうしていると今度は、鉄砲の弾丸が片腕に当りましたので、寝所のなかに這入って切腹した」――という説と、「寝所のあたりに火をつけた」という説と二つあるのでありますが、その直後のことは誰も見ていたわけではありませんから、まるっきり分らないのであります。
ところが、同じこの事件についての、キリシタン・バテレンの連中の報告というのが、実に精確きわまるものなのであります。その証拠があるのであります。彼等の報告は今日もいろいろな形式で書物になって、私たちの手にはいりますから、それをお読み下さるとお分りになるのでありますが、そういうものと、ニッポン人としては珍らしくリアルな手記を残している一人の人間の書いていることとを比較されますと、私の申すことが御諒解になれると思うのであります。
ここで私の申します、リアルな記録を残した、例外的な一人のニッポン人というのは、明智方として、本能寺へ寄せた軍勢中の大将の一人で、ホンジョウ・カクエモンという男のことなのであります。彼の覚書によりますというと、信長の死の前後は次のようになっております。これは手記でありますから、この部分もごく簡単であります。――
「本能寺のなかへ乗り込んだ時には、相手のなかで誰も手向って来る者がない。或いは自分を仲間だと思っていたのか、自分が這入っていっても手向いする者がなかったのか。それだからと云って、寝ている者もなかったし、気を配ってみたけれども鼠一匹すらも姿を見せなかった。せめて二、三人でもと思ったが、おどり出して抵抗して来る者もなかった。そもそも抵抗というものを何ひとつ感じることなく、信長の寝所へゆきついたのであった」――
こんな風なことが誌されております。
この一例でも分って頂けると思うのでありますが、すこしも他に煩わされることがなく、自分自身の体験そのものを、明確に書き上げた日本人の手記というものは、滅多にないのであります。これなどは実に特別な、特殊の例なのでありまして、殆んど、いや全ての者は、物事の本態を見るということを忘れているのであります。いつでも他人の思惑が考えられていまして、独立の個人の自由な考えとか、観察方法とかは許されていないし、許されなければブチ破ってやろうという人物はいなかったのであります。ニッポン人にとっては、毎時でも、もっと一般的な、嘘があってもかまわぬから一般的でさえあればいいというような調子がお得意なのでありまして、相も変らず、ハッタとにらんだとか、烈火のごとく憤ったとかいう云い方、そういう方式、どうにでもなるというような一般的な観察で片づけてしまおうとする考え方、従ってそのような手記、記録がぞくぞくと現れているのであります。むしろ、そればかりであります。
このような観察の仕方にくらべますと、ヨーロッパ人たちの物事の見方というものは、個々の事物にしかない、それぞれのその物事自体にしかあり得ないところの個性というものを、ありのままに眺めて、それをリアルに書いておりますので、それだけに非常に資料価値が高いのであります。そのリアリティというものは尊敬すべきであります。
今日、私たちニッポン人というものが、外国のいろいろな物事の真似をする時には、この意味での外国の性格、そうしてニッポンの性格というものをよく知り、殊に申したいのは、ニッポン人にはこのような性格上の欠点があるということを、よく知っておく必要があるということであります。
併《しか》し、それは今日の話でありまして、この話の当時にありましては、今私が申したような、個性に即した物事の見かたとか、観察の仕方というようなものは、驚くべきことには、婦女子の感覚だと云われていたのであります。そして、貶《け》なされていたのであります。それはどういうことかと申しますと、その当時の考え方では、男子たる者は、もっと大ざっぱに物事を考えなければいけないので、こういった細かい物事にはわざと眼をふさいで、気がついていても気がつかない振りをするほうが立派なのだ、という人生観がずーっと流行していたからであります。それが絶対的な権威をもったニッポン的人生観であったわけであります。こういうバカバカしい事が、ニッポン人一般の、物事の観察法、世界観といいますか、人間観察というものを大変に遅鈍にさせまして、実態にふれることのない、抽象的な考え方をはびこらせることになったのであります。抽象的にならざるを得なかったのであります。弱いのであります。
前にも申しました通りに、ニッポンと西洋とが接触しましたのは四百年ほど前のことでありまして、キリスト紀元の一五四三年、十六世紀、ニッポンで申しますと天文十二年であります。ちょうど、足利末期の戦国時代の始まりかけた時であります。但しこの時は、ヨーロッパ人は初めからニッポン本土へ来ようと思っていたのではありません。シナの船が、暴風に吹き流されて、種子ヶ島へ漂着したのであります。そのシナ船には、ポルトガル人が三人乗っておりました。
この三人のポルトガル人が鉄砲を持っておりました。この時にニッポンに初めて鉄砲が伝ったのであります。これが例の、われわれが種子ヶ島と云っておる、あれであります。これはまた、ヨーロッパとニッポンが接触いたしました初まりなのであります。
御存知のマルコポーロでありますが、彼の手記に書いてあるニッポンは、ジパングということでありまして、黄金で出来あがっている国だということになっております。そのように彼は報告しておるのであります。この報告によってニッポンへやって来る人間が、大変に多くなったのであります。そういう志を持つヨーロッパ人が急激に増加したのであります。
けれども、皆さん御存知のいわゆるキリスト教というものが、このニッポンへ渡来いたしまして、そして、本当の意味でニッポンと外国とが政治的に接触いたしましたのは、それから六年ほど経ちました一五四九年の、七月十五日のことでありますが――これはキリスト教の歴史という点で考えますと非常に大切な日なのであります――、この日に、フランシスコ・ザヴィエルという人物が、ニッポンの土地に初めて到着したのであります。
さて、この事実についてでありますが、われわれが特に記憶しておかなければならぬことがあるのであります。それは、この時に初めて日本の土をふんだ、このフランシスコ・ザヴィエルという宣教師は、当時、ヨーロッパにおきましても、まれに見る高僧なのでありまして、ジェスイットという宗派は、御存知のとおり今日でも残存致しているのでありますが、この宗派の開祖であるロイラーなる人物の最も親密な協力者であり、また最も信頼された同志であり、自他ともに許した最高の学識を有した高僧であったのであります。とは申しますものの、このジェスイット派と申しますのは、十六世紀の初頭にいたってカトリックが腐敗いたしまして、それに対抗しそれを改革しようとして、例のマルティン・ルーターが新教(プロテスタント)を樹立した、その結果としてカトリックの名声が地に墜ちました時に、こんなことでは不可《いけ》ないというので、真のカトリック精神、根本的なものへ還った意味でのカトリックの精神を実質的に回復させなければならぬというので、イエス・キリストの弟子という標語を押し立てて組織されたところの、非常に強力な同志的な結合をもっている宗教団体でありまして、貧乏、童貞、服従という三つの徳目をモットーといたしまして、人間個人の一切の私利とか私慾とかいうものを捨離して、神に仕えるという宗教であります。この宗派のこのモットーは大変に厳しいのでありまして、戒律というようなものが厳しいものであるなかでも、このジェスイット派は、特に厳格な戒律を守るという誓言によって成立した宗派なのでありました。この宗派が確固としたものとなりましたのは、フランシスコ・ザヴィエルがニッポンに到着しました時の九年
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