前、すなわち一五四〇年に到りまして、初めてのことなのであります。
もともと宗教と申しますものは、長年月にわたってつづいておりますと、どうしても堕落いたしますものですけれども、その例はまことに多いのでありますが、このように宗派の結成の初期といいますものは、何しろ非常に熱狂的なのでありまして、従ってニッポンへ初めて参りましたフランシスコ・ザヴィエルは前に申したとおりでありますが、その後にいたって続々としてやって来ました神父たちも、いずれもヨーロッパにおきましては、最も高徳な僧侶である、ということを記憶しておかなければなりません。
これらのことを頭の中へ入れておきますと、ニッポンがその当時に於てヨーロッパの影響をはげしく受けまして、殊に精神的には驚天動地というような感動を受けた面がありましたのも、たゞ今申すとおりに、ヨーロッパでも択《よ》りぬきといった神父たちがそろって、ニッポンへやって来ていたという、特殊な事情があったからなのでありまして、彼の地の宗教事情はともかくとしても、ニッポンにとっては、これは望外の仕合せであったのかも知れないのであります。
ところで、このフランシスコ・ザヴィエルという人物でありますが、この教父がどうしてニッポンへやって来るようになったかと申しますと、実はザヴィエルはインドで布教するために東洋へやって来ておったのであります。ですが、インドは御承知のとおり熱帯地方でありまして、インドの人間という者は、非常な怠けものでありまして、熱い熱いでどうも仕方がないのですから同情しますが、新しい知識などを求めようという意欲はまず持ってないと云ってよいのであります。もう一つ、インドにはごく古くから伝っている宗教が根強くはびこっていまして、その力はひろいので、新しい宗教を受けつけることを為《し》ないのであります。
さすがのフランシスコ・ザヴィエルも、この有様で、悲観しておりますと、たまたま一人のニッポン人が彼のところへやって来たのであります。これは弥次郎という人間であります。
この弥次郎が、どうしてインドへやって来たのかと申しますと、彼は鹿児島の人間であります。或る時、人を殺しまして、役人に追われて、お寺へ逃げこみました。何んとかして助かりたい。ところが、彼はポルトガルの一商人と友だちでありましたので、そのポルトガル商人に頼みこみまして、鹿児島の港へポルトガル船が碇泊しました時に、うまく乗り込み、海外へむかって脱走しようという手はずをととのえたのであります。その商人から紹介状をもらって、港へ出かけたのですが、ポルトガルの船が二艘来ておりました。この二艘の船の船長は、フランシスコ・ザヴィエルを非常に尊敬していたのでありました。
船長は弥次郎の話を聴きまして、大いに同情を催したのであります。船長は、弥次郎をザヴィエルに紹介してやろうというので、船へ乗せて、マラッカへ連れて参りました。
弥次郎はザヴィエルに会いまして、その人格に傾倒したのでありますが、ザヴィエルのほうでも、弥次郎を見ましたところが、今まで眼の前に見ていた熱帯の土人には見ることの出来ない知識、記憶力、礼儀正しさ、を認めただけでなく、その上にいつまでも何かを知ろうとする真面目な努力のひらめき[#「ひらめき」に傍点]があることが分りましたので、ニッポン人という人間がこのような人種であるのならば、このニッポンこそは、自分の伝道すべき地域であると考えたのでありました。ザヴィエルは、この弥次郎という人間が、実にどうも誠心誠意キリストの教えを守るので、とても吃驚《びっく》りしたのであります。彼は弥次郎を、インドのゴアという所にあるキリスト教の学校へやって勉強をさせたのでありましたが、弥次郎はもともとポルトガル人の友だちを持っていましたし、ゴアへ参りましても、普通のニッポン人にくらべますと驚くべきほど早く、たちまちにしてポルトガル語が上達いたしました。また、キリスト教の趣意を理解することにおきましても、長足の進歩をしたのでありまして、そのゴアの学校でも並ぶ者のないほどの、最高の学者になったのであります。
こんな具合ですから、ザヴィエルは、弥次郎に対して絶大な信頼をよせていたのでありますが、どうも併しこのことの為に、今日になりましてもニッポンの歴史家たちは――主としてキリスト教の歴史を書いておる歴史家のことを云うのでありますが、そして大体に於てはキリスト教徒のほうが多かったのでありますけれども――ザヴィエルを、この上もなく信頼しておりましたので、ザヴィエルの説をもそのままに呑み込むことが多く、弥次郎の人格をもまた非常に高く買っておるようでありますけれども、われわれ文学にたずさわっております者の眼から見ますと、どうも、そういう風には思えないのであります。
この弥次郎という青年は、いろいろな点から調べてみましても、どうも、その判《は》っきりした身分とか身許とかが、分らぬのであります。明確なところが少いのであります。ポルトガルの商人と親しい人間であったことは確からしいのでありますけれども、ザヴィエルがニッポンの事情について種々と聴きました時にも、宗教のことなどについては、まるで何も知らなかったのであります。従ってニッポンの仏教についてなども何も知らない、無知そのものでありましたので、ザヴィエルが非常にがっかりしたということが、ザヴィエル自身の書簡のなかに書かれておるのであります。ところで、問題がひとたび貿易に関係して参りますと、この弥次郎が実に正確な知識を持っているのであります。このことから判断してみまして、彼が多分商人の出であったろうということが分るのであります。年は三十五、六歳であったということであります。
思うにこの人物は、非常に世慣れた遊び人でありまして、いろいろと変った境遇に順応することの出来る処世の術を、かなりよく心得ておったのだろうと思うのであります。ですから、郷に入ったら郷に従えというわけで、ザヴィエルに会いますと、彼はこの教父に順応するために多いに努めたのでしょう。また、彼がザヴィエルに傾倒したというのは、本当のことであろうと思いますが、それは、人を殺すぐらいの人間というものは、非常に人に惚れっぽいのでありまして、その点からしても彼がザヴィエルに参ったろうということは肯けるのであります。弥次郎は、キリスト教の教えのなかで何に一番感動したかと申しますと、それはキリスト受難に対してなのでありまして、思うにこの男は一種のボヘミアン的の性格を持っていたに違いないのであります。このような弥次郎がキリストの受難に心を傾けたということ、その事実だけは、一つの事件として肯けるのでありますが、弥次郎はキリスト教徒になったのではないのであります。
初めのうち、ザヴィエルがそばにおりました間は、真面目な顔をしておりましたけれども、間もなく彼はグレ出したのであります。後になりますと、例の八幡船《ばはんせん》という、半分は海賊みたいな、半分は貿易をやるような船に乗りこみまして、シナへ這入りこんでいってニンポーという所でシナ人に殺されたという記録が残っております。
こんな人間でありますだけに、この弥次郎という男は非常に礼儀正しいのです。もともとニッポン人というものは、実際は礼儀正しいところがあるものなのでありますけれども、元来よい人間というものは、むしろ却ってザックバランなものなので、そんなに糞真面目に人と応対などはしないものであります。弥次郎は、おそらくはザヴィエルに対して、何事につけても非常にしかつめらしい態度で応待しておったんだろうと思います。ザヴィエルはそれを大変に信用しまして、おそらくニッポン人というものについての最初の観念におきまして誤っておりましたので、ニッポン人を見る眼に誤解が起ったんだろうと思われる節があります。
ここにまた面白い事があるのでありますが、私がなぜ弥次郎をそんな人間であるかと申しますかというと、たとえばザヴィエルが――
「ニッポン人は、私が行って布教をしたら、すぐにキリスト教徒になるだろうか?」――という風に弥次郎にたずねましたところが、弥次郎が答えまして――
「いや、ニッポン人というものは非常に理屈っぽい国民で、すぐにはキリスト教徒にはならぬ代りに、道理というものを飲みこめば、改宗します」
――という風に答えております。こういうところは、ニッポン人観というものが大いに正確でありまして、仏教の知識が何一つなかったと思われる弥次郎にも似合わない、人間観察の正しさを見せております。
また、ザヴィエルがポルトガルの船に乗ってニッポンに行こうと申しました時に、弥次郎はそれに答えて、――
「ポルトガルの船乗りというやつは非常に好色で、ニッポンの港へやって来てもとても評判がよくないから、あんな船へ乗っていったら、キリスト教の名声を落します。ですから、シナの船に乗りなさい」
――と云って、シナの船に乗せたということであります。こういうことも、ニッポンの歴史家は、弥次郎がこんなことを云ったことは一種の伝説だろうと軽く片づけていますけれども、私はそこに弥次郎の本音があるのだろうと思います。弥次郎は、非常に遊び人的な風格を持った人間でありますから、そういう船乗の生活というものがニッポン人に反撥されるということは、非常によく、実感をもって、知っておったのだと思われるのであります。
この弥次郎に伴われまして、フランシスコ・ザヴィエルはニッポンに参ったのでありますが、ニッポン人は大歓迎をいたしたのでありまして、初めのうちは押すな押すなの繁昌というわけであります。何しろ七人ほど黒ん坊を一緒に連れて参りましたので、その黒ん坊を大変珍らしがってニッポン人が押しかけました。
サツマの殿様の島津さんに謁見いたしまして、布教の許可を受けることができました。この時にザヴィエルが、鹿児島のフクソウ寺のニンジという高僧と友だちになりました。このフクソウ寺というのは、鹿児島の島津家の菩提寺だそうで、当時百人ほどの禅僧がおったと申しますから、非常に大きなお寺、サツマで最大のお寺であり、そこのニンジという禅僧は、サツマきっての傑僧であったのだと思います。
ザヴィエルは、このお寺を借りまして、キリスト教の説教を始めました。
フランシスコ・ザヴィエルは、フクソウ寺の傑僧ニンジと、毎日のように顔を合せていますし、いろいろなことで友達になったのでありますが、ニンジとは種々の話題をつかまえて話をしておりまして、それが記録みたいなものに残っております。
ザヴィエルが或る日、フクソウ寺へやって行きますと、百人ばかりの坊主が坐禅をやっておるところでした。これは変った風景に見えたことでありましょう。
ザヴィエルは、
「あれは、一体、何を為ているのですか?」
と聞いたのであります。
ニンジは、
「あゝ、あれですか、あれは瞑想しているのです。目下、苦行をしているのですよ」
と答えたのであります。
これがザヴィエルには、なかなか合点が行かない。
「瞑想と云ったって、あんなふうなことをしていて、そもそも、何を考えているんですか?」
と聞かざるを得なかったのであります。
この問いを耳にすると、ニンジはにっこりと笑いまして、
「いや、あの連中のことですから、どうせ碌なことは考えているわけがありません。おおかた、明日の御布施がどのくらい集まるだろうとか、出かけて行った先きの檀家で、どんな料理が出るだろうとか、そんなことをでも考えているんでしょう。大したことは考えていませんよ」
というような返事を与えたのであります。
この答えはまことに象徴的なものでありまして、禅宗の坊主としては、なるほど云いそうなことであります。尤もな話なのであります。ニンジというこの坊さんが、当時のいわゆる傑僧であり、また事実上でも高僧と云われているような人物でありますだけに、このような言葉には意味があるのであります。大体が、禅というものは人間の持っている人間性、その全べてのものを、そのままに肯定する
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