高僧であればあるほど、そういう自分自身の悟りが未熟であることを知っておるのだろうと思います。そういう悟りの場に於ても、仏教には実践がないのでありますから、具体的な手がかりというものはないのであります。自分が何をしておるか分らないのであります。
ところが、ザヴィエルのほうは、貧窮ということを第一のモットーといたしまして自分自身の全生涯をそれで計っております。そして、他人の幸福のためにすべてを捧げて生きようというふうに、彼の生涯はそれにかかっているのであります。
そういった、実践の目標の判っきりしている宗教の前へ出ますというと、禅宗の如き宗教は、全然意味をなさないのであります。自分自身が高僧であればあるほど、悟りの内容の空虚さが分って来るのでありまして、その点でニンジは非常に苦しかったのであります。
ザヴィエルが帰国しました後で、彼の弟子のアルメードという布教師が来たのでありますが、そのアルメードに向って、ニンジは、
「自分は禅僧としての地位と名望のようなものがあるので、公然とキリスト教徒になることは出来ないが、どうか自分に洗礼をさずけて貰えないだろうか。そして、自分は殿様の菩提寺の
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