、というところから始まっているのであります。ニンジも、人間が行動するところのピンからキリまでを肯定する、肯定しようと努力するのであります。彼等にとっては、この人間性の肯定ということが、そもそもの出発点なのであります。
 禅はこのように考えておりますから、例えば人間の強さも弱さもそれらをとにかく全部的に肯定してしまう。その上で、その肯定という基本的努力の上で、自分の自分一個の安心の道を講ずるのであります。安心の世界を見出そうと努めるのであります。
 他人というものには構わずに、自分だけの悟りを求めるというのが禅の建前なのでありますが、それだけに逆にまた他人に対しては寛大な態度をとるのであります。一口に云えば鷹揚になり得るのであります。
 ですからニンジは、しかつめらしい顔をして坐禅を組んでいる、修行中の僧侶たちが、そのままで行い澄ました境地にいるのだ、というふうには、云い得なかったのでありまして、たとえ彼等が人間本来の弱さからして、どんなに俗なことを考えていたにしても、それはそれとして咎めるべき筋合いのものではないと考えているのであります。ごく寛やかな見方をしている訳であります。そこで、そういうことを云ったのであります。
 すると、これを聞いたザヴィエルのほうは、非常にびっくり致しました。日本の坊主というものは、苦行の最中にも、宇宙とか神とか真理とかいうようなもののことは一寸も考えずに、瞑想の間にあってお金のことや料理のことを考えているのである、というようなことを直ぐに本国へそのまま報告した、ということが記録に載せられております。
 また或る時に、ザヴィエルがニンジに向いまして、
「貴方は一体、年齢が若い頃がよろしかったか、年をとってからのほうがよろしいか?」
 ということを聞いたことがあります。
 ニンジはそれに答えまして、
「いや、若い時のほうがよかったですね。若い時には元気があるし好きなことも出来たりするし……」
 と云いました。
 こういった問答があったのでありますが、ザヴィエルは続いてこんな質問をしているのであります。――
「それではですね。今、一人の船乗りが船に乗って、Aの港からBの港へ行こうとしているとする。そういう時に、彼が元気に任せて荒海へ乗り出して暴風にもまれて行くのがよいか、それとも何処かの港へまず近寄り、そこで段々に港から港へと伝わって行くほうがよいか、どちらがよいだろう?」
 これを聞くとニンジは笑い出してしまいました。そして答えた。
「そりァそんなことは極っていますよ。云うまでもありませんよ。港を目指して行くのがいいです。港というものが判っきりしておって、自分が歓迎されるということが分れば、誰だってそこへ行きます。けれども、私は、私の船がどこへ行くのか知っていないんです。自分の行く先が分らないのですから、貴方の云うようなことを聞かれても、私には返事が出来ませんよ」
 こんな答だったのであります。
 ニンジという人は、非常にザヴィエルを尊敬いたしておったのです。それからまたカトリックにも大いに傾倒いたしたのであります。そして自分もカトリックになろうと思って、大変に苦悶いたしたのであります。
 ニンジの帰依しておりました禅宗というものを考えてみますと、この宗教は、人生をそのままで肯定して、その上で自分一個の悟りをひらこうという目的で、坐禅などをいたしまして、観念だけの上で安心をはかろうといたすのであります。死生の大悟などと云いまして、われわれが見ますと、禅の高僧などといいますと、如何にも悟りきった人間であるようでありますが、高僧であればあるほど、そういう自分自身の悟りが未熟であることを知っておるのだろうと思います。そういう悟りの場に於ても、仏教には実践がないのでありますから、具体的な手がかりというものはないのであります。自分が何をしておるか分らないのであります。
 ところが、ザヴィエルのほうは、貧窮ということを第一のモットーといたしまして自分自身の全生涯をそれで計っております。そして、他人の幸福のためにすべてを捧げて生きようというふうに、彼の生涯はそれにかかっているのであります。
 そういった、実践の目標の判っきりしている宗教の前へ出ますというと、禅宗の如き宗教は、全然意味をなさないのであります。自分自身が高僧であればあるほど、悟りの内容の空虚さが分って来るのでありまして、その点でニンジは非常に苦しかったのであります。
 ザヴィエルが帰国しました後で、彼の弟子のアルメードという布教師が来たのでありますが、そのアルメードに向って、ニンジは、
「自分は禅僧としての地位と名望のようなものがあるので、公然とキリスト教徒になることは出来ないが、どうか自分に洗礼をさずけて貰えないだろうか。そして、自分は殿様の菩提寺の
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