がよいか、どちらがよいだろう?」
これを聞くとニンジは笑い出してしまいました。そして答えた。
「そりァそんなことは極っていますよ。云うまでもありませんよ。港を目指して行くのがいいです。港というものが判っきりしておって、自分が歓迎されるということが分れば、誰だってそこへ行きます。けれども、私は、私の船がどこへ行くのか知っていないんです。自分の行く先が分らないのですから、貴方の云うようなことを聞かれても、私には返事が出来ませんよ」
こんな答だったのであります。
ニンジという人は、非常にザヴィエルを尊敬いたしておったのです。それからまたカトリックにも大いに傾倒いたしたのであります。そして自分もカトリックになろうと思って、大変に苦悶いたしたのであります。
ニンジの帰依しておりました禅宗というものを考えてみますと、この宗教は、人生をそのままで肯定して、その上で自分一個の悟りをひらこうという目的で、坐禅などをいたしまして、観念だけの上で安心をはかろうといたすのであります。死生の大悟などと云いまして、われわれが見ますと、禅の高僧などといいますと、如何にも悟りきった人間であるようでありますが、高僧であればあるほど、そういう自分自身の悟りが未熟であることを知っておるのだろうと思います。そういう悟りの場に於ても、仏教には実践がないのでありますから、具体的な手がかりというものはないのであります。自分が何をしておるか分らないのであります。
ところが、ザヴィエルのほうは、貧窮ということを第一のモットーといたしまして自分自身の全生涯をそれで計っております。そして、他人の幸福のためにすべてを捧げて生きようというふうに、彼の生涯はそれにかかっているのであります。
そういった、実践の目標の判っきりしている宗教の前へ出ますというと、禅宗の如き宗教は、全然意味をなさないのであります。自分自身が高僧であればあるほど、悟りの内容の空虚さが分って来るのでありまして、その点でニンジは非常に苦しかったのであります。
ザヴィエルが帰国しました後で、彼の弟子のアルメードという布教師が来たのでありますが、そのアルメードに向って、ニンジは、
「自分は禅僧としての地位と名望のようなものがあるので、公然とキリスト教徒になることは出来ないが、どうか自分に洗礼をさずけて貰えないだろうか。そして、自分は殿様の菩提寺の
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