限りをさらしている。
裁判でもそうだ。先日、大学助教授のマジメらしき医者が、死体の腹部に赤子死体をぬいこんだ事件など、起訴にならなかったが、私には、検事の主観的考察にかたよったもので、裁判本来の性格を外れたものに思われる。
私は思う。現実に堕落タイハイとよぶべきものは、かゝる主観性の安易な流行である、と。パンパンなどは、まだしも、自ら正義化していないから罪が軽いのである。
子供の智慧
イノチ売りたし、という人が名古屋に現れて流行の兆あらわれ、銀座にも、イノチ売りたしのビラをはった、二十五の元少尉が現れたそうだ。
イノチが本当に買えるわけはないのだけれども、買い手が何人も現れるというから、あさましい。子供たちはクビだのイノチを賭けたがるもので、やい約束だからクビをよこせなど、ケンカに及んでいるものであるが、ちかごろは大人が子供の智慧ぐらいのことを本気でやってる始末である。
八十万円をサギでまきあげた女事務員があれば、十四で十万円をもって逃げた少年もある。
帝銀事件の犯人などはゴマシオ頭のくせに、たった十六万ぬすむのに十二人も殺している。智慧のないこと甚しい。ちか
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