活選手の慈善の対象と化しつつあるのである。
 慈善の性格というものには、多かれ少かれ、かかる無智のバカラシサや、ギマン矛盾がふくまれているものだ。そのバカラシサが、このように明白なものはまだ罪がないので、そのバカラシサが如何に多く現実に横行し、自覚されずにいるか判らない。
 政治献金は利益の取引ではなくて、単なる献金だという。つまり慈善である。利益の取引は罪を構成するかも知れぬが、献金や慈善は罪を構成しない。その代り、人間の生活を、無学無智、白痴の世界へひきずりこんでいるものだ。神を怖れざる仕業である。
 私は阿部定さんに結婚を申込み、万引の美少女に結婚を申込む勇士の方に賞賛をおくる。それは慈善ではない。あきらかに、好色である。羞恥なき仕業であるかも知れないが世のツマハジキを怖れない勇気がいる。つまり自ら罪人たる勇気がいる。献金だの慈善などと言わずに、自ら利益の取引であることを明にしている態度なのである。
 近ごろの政治献金という慈善事業は、伯爵の倅《せがれ》を引取りに行く裏長屋のオカミサンによく似ている。無学無智、白痴たることによって罪を救われているにすぎない。
 自らの罪を知り、罪
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