不足の今日、学生という自足できない一団が畸型児の第一線を占めるのは当然だ。
いったいが、日本では、家庭にも学校にも娯楽というものが殆どない。娯楽というと、家庭や学校を放れて、野放しのものとならざるを得ぬ。今のように一般生活が貧困をきわめている時に、家庭の娯楽といってもムリのようであるが、娯楽というものを家庭の日常必需品と同様、主食同様、欠くべからざるものと見る生活態度の確立が必要である。
学校もそうだ。設備が不完全なくせに、学生を入れすぎる。学問と共に娯楽を与え、よき娯楽設備をもたねばならぬ。スポーツを選手でなく学生一般のものとし、映画や劇場やダンスホールぐらい備えた学生ホールが常備されるべきであろう。
男女共学からくる恋愛の如きものを怖れる必要はない。時に間違いは有りがちでも、恋愛そのものが間違いではないのであるから、青年特有の正義心を信頼し、夢多き年代の特質を生かしてやる思いやりが欲しいものだ。
応援団とダラク書生
一部の素行よからぬ学生のため、大学内に自治運動が起りつつある由であるが、自治がどのような方法で行われるのか、自治運動が学生の私設憲兵化をまねかなければ幸いである。
先日散歩していたら、ラジオ屋の人だかりにぶつかって、私も五分ばかり慶明戦の応援団の熱狂ぶりをきいた。昔ながらのものである。こういう応援団が学生らしい学生で、応援団長とか幹事とかが特に健全なる学生なのかも知れないが、自治運動の親分がこの種の連中だとすると、私は素行よからぬ学生に同情したくなるのである。
だいたい応援団の雰囲気というものは、教練よりも、もっと好戦的なものである。スポーツそれ自体の性格とは違っている。スポーツは喧嘩と違って、文化的なものであり、勝負はあっても、理知も節制もある娯楽であるが、応援団は喧嘩に属する性格である。ユーモアを解する精神もなければ、プレーをたのしむ精神もなく、好戦的な熱狂だけが全部である。この種の愛校心と、ファッショや右翼団体的な愛国心とは同じ偏したものだ。批判精神などミジンもない。
私は強いて悪童に味方をしたくはないのであるが、こういう応援団の秩序の中へ参加して、キチガイめいて白雲なびくなどと声をからしている連中にくらべると、こんな仲間に加わらずに、ダンスホールへもぐりこんでいる悪童の方が、まだしも人間らしく見えるのである。
悪
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