童の性格には、ともかく個性とか個の自覚とか多少の自主性も見られるけれども、応援団の性格には、ファッショ時代には急進的ファッショとなって声をからし、民主時代には、とたんに民主人民となって片棒かつぐ時流のまにまに批判も反省もないデクノボーの性格しか感じられないのである。
応援団的学生が、学生の輿論をつくって悪童を裁いたり怒鳴りつけたり学生の本分を説いたりするのが学内自治と称するものなら、私は悪童の堕落よりも、自治の堕落の方が悲しむべきことだろうと思う。
過渡期に現れる一部分の悪現象から、徒らに旧秩序への復帰を急ぐのは危険であり、そこには進歩というものを期待することができない。
私は、旧秩序への復帰を正理とする人々の方が不健全、畸型なファシストに見え、それにくらべれば、過渡期上の一部の悪現象は、まだしも、健全に見えるのである。そこを通して、新たなより高い生活がやがて結ばれるであろうからである。
私は強盗学生や桃色大学生が好きではないけれども、応援団的学生の自治精神はそれ以上に嫌いである。
慈善と献金
元伯爵の子供が窃盗罪でつかまったら、引きとって更生させたいという志願者が殺到したそうだ。元華族らしき女人をはじめ裏長屋のオカミサンに至るまで、いずれも御婦人方であった。
華族崇拝だの封建性だのと目クジラだてて民主ヅラをひけらかすのは当らない。英雄崇拝や美女美男崇拝はどこにもあることだ。阿部定さんの出所をまって結婚したいと申しこんだ勇士はたくさんあった筈であるし、伯爵令嬢でなくとも、美少女の万引犯に引取って更生させたいと申込みたい勇士は少くない筈である。内々はそう思っても、やらないだけのことで、今まで女はメッタにこんなことをやらなかったが、近ごろは、怖れげもなく、そういうことをやる。
羞恥心の喪失ということではないようだ。元々羞恥してはおらぬのである。なぜなら、元伯爵の子供であり、美少年であるから、という秘密には当の本人が気付いていない。当人はただ可哀そうだと思っており、よいことをしている気持でいるらしい。
つまり、無学無智なのである。そして、現在の日本は、かかる無智なるものに生活力があり、慈善を施す能力が具わったという証拠でもあり、家柄とか教養などというものが生活力を失いつつある証拠でもあるのである。深き教養とか高き家柄というものは、無智無学の生
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