する。古代人の奇蹟が現代の観念論の中にだけ実在しているのである。
 観念論の虚しさに共産党へ走った出隆教授の飛躍にも、私はその根柢に観念論だけで育った人のもつ思索の不備を見る。恋愛から殺人への飛躍の不備と同じ不備を見るのである。
 実人生への関聯、これを私流に云えば、文学との関聯、つまり個々に直面して即物的に処理せざるを得ぬ現実への厳しい目配りを没却して、無為に観念のみを弄ぶひとりよがりの学究態度というものの幼稚さをさとるべき時代であろうと私は思う。

     スリと浮浪児

 私の外套のポケットは内側から切られている。スリの仕業である。私はこの冬外套の内ポケットへ入れておいた金を二度スラれた。出版社から受取ったばかりの印税をみんな持って行かれ、坂口さんはマヌケだなア、わかりそうなものだがなア、などと笑ったその出版社の連中が、今では一人のこらずスリの被害をうけて、カバンをやられてフロシキ包みをブラさげて御出勤の者、腕時計をやられた者、蟇口《がまぐち》組、外套組というのもある。外套をスラれるというのは珍しい。
 この五日にも、さる出版社の連中六人がやられた。社の会の帰途十時ごろ、神田駅のプラットフォームで集団スリにとりかこまれて、集団タックルの波状攻撃をうけて全滅したのである。プラットフォームにはほかに乗客もたくさんいて、このギャングどもをどうすることもできないとは、悲しい。その翌日、偶然その社へ立寄ったら、我々もついにギャングに襲われる身分に立身しまして、などとシカメッ面で力んでいたが、おかげで私の原稿料は当分支払い延期ということになり、誰が被害者だかわからない。
 私の知人でスラれていない人間は先ず見当らないのであるから、東京都の住民はスラれない人の方が珍しいのかも知れない。
 集団スリの一味四十二名がつかまって、手先の大部分は浮浪児だ。
 そこで問題はスリという犯罪よりも浮浪児の救済処置が重大な課題となるのであるが、収容所へ送っては逃げられ、同じことを繰返しているのが現状のようである。
 浮浪児は一日千円のカセギがあって、サシミやスシを食い、ウナギや洋食や支那料理で満腹しているから、収容所で特別三合の配給を与え、オヤツをだしてやってもダメだという。
 今までサシミやウナギを食っていたから、特別三合配給してオヤツもやるということが変だ。そういう論拠では、結局スリ
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