寛大であるから、暴言などは許して下さるものだろう、とアベコベな風に考えていたのである。
 私は帝銀事件の犯人が怖い。青酸カリをのんでバタバタ倒れる人々を冷然と見ている姿を考えると、いさゝかゾッとするのであるが、火事です、消防署へ、という電話をうけて、スト中だからダメです、とスイッチをきったという交換嬢の姿を考えると、帝銀の犯人よりも、もっと怖ろしくてもっとビリビリふるえあがってしまうのである。だから私は、満場一致女先生の退職勧告を決議したという先生方の怖れおのゝく気持にはいさゝか同情をもつのである。

     馬鹿殿様観念論

 京大生が共学の女学生に心中をせまって拒絶され、メッタギリに刺殺したという事件が起った。新聞紙は概ね共学による新問題として執りあげているが、所詮男女のあるところ恋愛は自然のことであり、恋愛をたゞちに不義とみる日本古来の思想が正理でない限りは、恋愛事件が共学に影響をもたらすことは有り得ない。問題は加害者の恋愛態度だ。
 朝日新聞の報ずるところによると、加害者はその動機を、唯物論と観念論にまよい、救いを八重子との恋愛にもとめたが、幻滅を感じ、八重子を殺すことによって完全な救いが得られると信じた、と語っている。
 これだけの報道で事件を批判するのは甚だしく不完全であるけれども、空転する観念から殺人という行動へ飛躍し、その飛躍をさらに理論づけようとする現代の観念論の不備については厳しく批判する必要があるだろうと思う。私がドストエフスキイやジイドに不満を感じる最大の点もそこであった。
 現代の観念論は観念にかたよりすぎているから、飛躍を合理化せざるを得ないのであるが、恋愛から殺人へ、社会への不満から殺人へ、武力革命へというような飛躍は、合理化し得ざるものである。なぜなら、事の四周には無数の関係があり、事の上下には無限の段階が有るはずであるからだ。
 現代哲学の観念論は、この無数の関係や段階を観念的に処理する原則的方法については考究するところがあるけれども、実人生においては個々の関係や段階に即物的に処理せざるを得ないもので、哲学の説くところはその原則的方法だけだ。個々に直面して即物的に処理せざるを得ぬ実人生の厳しさを忘却して平然たる馬鹿殿様ぶりであるから、恋愛から殺人へ、そしてそれを合理化しようとする無暴な空論を時に神聖視して怪しまない阿呆なことが横行
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