、人情化されて語り伝えられているのである。
講談は今もなお語られ、そして語られるということは、大衆に支持されているということだ。支持するとは、その講談の場に於て尚大衆が生活しつゝあるということである。
ヤクザの世界は今も講談そのまゝであるが、一般大衆にも、やっぱり講談の場と通ずる底辺があるはずだ。
その歴然たるショウコには裁判がある。同じ人殺しでも、ヤクザの人殺しは、特別の観点、つまり講談の場から解釈せられて、特異なものに扱われ、多少は罪が軽いようだ。つまり裁判においてすら講談の場が、一応その正常性を認められているのである。講談の場は決して正常ではないはずである。
今日の犯罪増加の一因には、我々の日常生活に残存する講談性にも原因があろうと思う。
男女同権
さる小学校に宴会があった。女の先生方がオサンドン代りに食卓の用意をさせられ、あまつさえ酔っ払った男の先生から侮辱的言辞をあびせられた。気を悪くした一人の女先生が山川菊枝部長にこの話をつたえたから、部長は男性の横暴増長に胸をいためられて、男女同権|未《いまだ》しと怒りの一文を草せられた。くだんの小学校に於ては、酒席の内輪ごとをみだりにアバイタ曲者であると、全先生満場一致、くだんの女先生に退職勧告を決議あそばした。重ね重ねの増長傲慢に山川部長はゲキリンされて、小学校へのりこんで校長先生に厳談されたが、校長先生の答えられるには、満場一致という民主的解決であるからと仰せられ、女史のお叱りに服する気配だになかったという話である。
私たち文士仲間にも女流作家という方々があって平等に手腕をふるっていられるが、小学校の先生方にくらべると、見識が低いようだ。
なぜなら、宴会ともなれば女中代りに料理を運んで下さったり、取り分けて下さったり、オシャクして下さったり、すゝんでいろいろと下々の立居振舞をなされる。酔っ払った我々が無礼な言辞を申上げても、ゲキリンして一文を草されたという話もきかない。
私は元来、中性という新動物の発生は極力これを阻止したいと念願するほど教養の低い男であるから、山川菊枝部長の識見には理解のとゞかぬウラミがある。だから私は、御婦人というものは、宴会ともなれば、オサンドンの代りをさせられるものではなくて、すゝんでして下さる性質のものであり、又、酔っ払いの男などより教養も高く、情意もひろく
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