ドンとの関係であり、裏面ではチークダンスの関係である。そして、子供ができる。それを育て愛するに動物本能の関係である。
 密室だろうと表向きだろうと、犯罪は犯罪、無罪は無罪であろう。北斎は密室を描いてもワイセツの低さはなかった。趣味教養の然らしめるところである。
 悪趣味や無教養というものはフンジバッて、牢屋へ投げこんでも、どうなるものでもない。チークダンス愛好家は悪趣味、無教養というだけのことであるから、その対策はフンジバルこととは別だろうと私は思う。
 密室を高めなければダメなのである。

     講談の世界

 賭場を襲った強盗がある。十五万円と腕時計を六ツぐらいはぎとって、金モウケはこういうグアイにやるものだ、バクチなんてケチな金モウケをするな、と一場の訓辞をたれて引上げた。賭場の胴元は口惜しくてたまらず、涙をのんで訴えでて、バクチの方の御常連十四方は仲よくジュズツナギにならせられたという。泣きッ面に蜂であるが、自分たちがジュズツナギになることよりも、復讐の一念がより大きな願望であったとすれば、このへんの幸と不幸、満足と不満足、損とモウケ、心理を加味した如上の計算はまことに複雑をきわめ、正解をひきだす算式はたぶん発見できないだろう。
 然し計算というものは精神の平衡状態において算出されるものであるが、賭場の一味には「口惜しまぎれに」という平衡を失した異常心理がはたらいており、だから益々計算の方途を失う。要するに、結果は、どんなにリュウインを下げてみても、後悔、つまり後悔ということは、計算法の出発点がまちがっていたという意味なのである。然し、それでも、訴えない方が利口であったという結論にはならない。心理の計算はむずかしい。
 近ごろの世相は兇悪犯罪が増加しているけれども、ともかく犯罪が悪事であること、犯人が己れの悪と戦っている苦痛の心理はあるはずだ。文学に於ても、罪人がその罪と戦うことは常識であるし、一般世間の常識に於ても、罪人がその罪と争うことは当然とされているものである。
 ところが江戸時代の一種の文学である筈の講談という世界には、正しい罪の解釈がない。罪の自覚に妥当な内省や計算が加えられていないのである。
 殿様のお手打であるとか、新刀をもとめての辻斬であるとか、賭場荒しであるとか、仇打ちであるとか、それらのことは正常の罪の自覚とは別の場に於て物語化され
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