浅草は、よい脚本と、よい芸でなければならぬ。特に女優や踊りに、色けがなければ、ならぬ。
 私は酔っ払うと、女優さん踊子さん方に必ず云うのである。芸なんかどうでもいゝさ、先ず、舞台で、色っぽい女でなきゃ、いけません、と。
 そして私は浅草の演出家に言うのである。そんな君、そこで声を大きく、とか、身振りを大きく、とか、そんな問題じゃアないぜ。女はもっと色っぽく。それだけだ。一も二も百も万も、色気々々々々、それあるのみ。
 私は戦争中から、浅草で酔っ払うと、こう言いつづけてきたのである。
 まったく、歯がゆくなるのである。私のお酒につきあってくれる彼女たちは、なんと可愛いゝ彼女たちであろうか。妖婦じみた色っぽいのや、年増の色気や、清楚な色け、みんな色気でいっぱいなのだ。そのくせ、舞台へあがると、死んだ女になってしまう。たゞ女の形をした死んだ演技があるだけである。
 むかし、高清子という人があった。この人には、変テコな色気があった。色々な女の、色々の色気がなければならぬ。
 ロッパ一座の成功の陰には、三益愛子と能勢妙子の相反する二つの色ッポサが与《あずか》って力があったと私は思う。
 タロちゃ
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