ものではない。こういう型が通用しなくなったということは、浅草の一進歩で、これからが、むしろヤリ甲斐のある仕事というものであろう。
 恋々と昔の型や、昔の浅草にとらわれていては、だめである。浅草の人たちが、このことに気付いて、新風に思いを凝らしはじめたことは結構で、なんといっても、古い根のある土地柄だから、心機一転、身構えを変えれば、立直るだけの素質はそろっている。
 だが、浅草というところは、これぐらい気軽に酒の飲めるところはない。女優さんのみならず、男の芸人たちも、それぞれ仁義ある小悪党で、罪を憎まず、人の弱さを知り、およそ暴力を知らない平和人ばかりである。彼らの世界には幾多の恋や情痴はあっても、暴力というものはないだろう。ドサ廻りの悲しさが、いつもつきまとっている浅草人の表情は、酒の心にしみるものがあるのである。
 浅草には絵描きはいないが、浅草は東京のモンパルナスとかモンマルトルというところで、浪流と希望の魂のはかない小天地である。
 こういう性格は、文化都市の一つの心臓として欠くべからざるもので、文化のあるところ、必ずつきまとうもの、これが失われては、浅草はない。
 これからの
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