う。誰のへソだって、ヘソにあんまり変りはないよ。自分のへソを鏡に見たって、いたゞけるシロモノじゃないじゃないか。ヘソを見て、よろこぶんだからネ、ひでえことになりやがったよ」
ちなみに、ヘソレビュウという奴を書いて、日本演劇史に新紀元をつくった脚本書きは、ほかならぬタロちゃんなのである。まことにどうも、よからぬ男だ。
然し、ダシ物によってしか客が来なくなったということは、浅草の一大進歩と申すべきだろう。浅草はペラゴロの昔から、人情的でありすぎ、一座とお客とナレアイでありすぎた、お客は芸や劇を見るのじゃなしに、一座を見にくるだけで、演劇の進歩というものは殆どなかったようだ。
浅草の芸人諸君は、何かというと、これはウケルね、という。つまり、ウケル、とか、ウケナイ、ということが身上で、これはどこの芸人でも、そういうものであろうけれども、浅草のウケル型というものがきまっていて、これは浅草でウケル型、これは新宿でウケル型、そういう型があり、その型と狎れ合って、型通りの芝居をすればよかったのだ。そういう型がなくなったのだ。
きまった型の中でやっていたのでは、浅草の芸人であるだけで、それ以外の
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