た。然し、決して男に恥をかゝせるような素振りはしないところが、また、よろしいところで、男は酔っ払えば女の子を口説くにきまったものだと心得きっていられるところ、まことに可憐で、よろしい。
 浅草の男の子も、立派なもので、私がもっぱら女優部屋専門にお酒をのみに侵入しても、それが当然と心得ており、なまじ男優部屋へ顔をだすと、薄気味わるがるような仕組みになっており、お門が違いましょう、という面持である。
 浅草もちかごろは変ったそうだ。お客が変った。
 タロちゃんの言葉によると、終戦後、日本が変ったと人々は云う。然し、どこがどう変ったかとなると、誰もハッキリこうだと云えないものであるが、その日本の変りという奴をイヤというほどハッキリ見せつけられるのが、浅草のお客だそうである。
 森川信だの清水金一などゝいう浅草育ちの一座を、殆ど知らない。そういう一座の名前によって、客が集らなくなった。問題はダシ物一つだそうである。
 そこでタロちゃんはニヤニヤしながら、こう言うのである。
「つまり、ヘソですよ。ヘソを出しゃ、お客がくるんだからね。ヘソなんか見たって、面白おかしくもないじゃないか。ネエ。そうだろう。誰のへソだって、ヘソにあんまり変りはないよ。自分のへソを鏡に見たって、いたゞけるシロモノじゃないじゃないか。ヘソを見て、よろこぶんだからネ、ひでえことになりやがったよ」
 ちなみに、ヘソレビュウという奴を書いて、日本演劇史に新紀元をつくった脚本書きは、ほかならぬタロちゃんなのである。まことにどうも、よからぬ男だ。
 然し、ダシ物によってしか客が来なくなったということは、浅草の一大進歩と申すべきだろう。浅草はペラゴロの昔から、人情的でありすぎ、一座とお客とナレアイでありすぎた、お客は芸や劇を見るのじゃなしに、一座を見にくるだけで、演劇の進歩というものは殆どなかったようだ。
 浅草の芸人諸君は、何かというと、これはウケルね、という。つまり、ウケル、とか、ウケナイ、ということが身上で、これはどこの芸人でも、そういうものであろうけれども、浅草のウケル型というものがきまっていて、これは浅草でウケル型、これは新宿でウケル型、そういう型があり、その型と狎れ合って、型通りの芝居をすればよかったのだ。そういう型がなくなったのだ。
 きまった型の中でやっていたのでは、浅草の芸人であるだけで、それ以外の
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