ものではない。こういう型が通用しなくなったということは、浅草の一進歩で、これからが、むしろヤリ甲斐のある仕事というものであろう。
恋々と昔の型や、昔の浅草にとらわれていては、だめである。浅草の人たちが、このことに気付いて、新風に思いを凝らしはじめたことは結構で、なんといっても、古い根のある土地柄だから、心機一転、身構えを変えれば、立直るだけの素質はそろっている。
だが、浅草というところは、これぐらい気軽に酒の飲めるところはない。女優さんのみならず、男の芸人たちも、それぞれ仁義ある小悪党で、罪を憎まず、人の弱さを知り、およそ暴力を知らない平和人ばかりである。彼らの世界には幾多の恋や情痴はあっても、暴力というものはないだろう。ドサ廻りの悲しさが、いつもつきまとっている浅草人の表情は、酒の心にしみるものがあるのである。
浅草には絵描きはいないが、浅草は東京のモンパルナスとかモンマルトルというところで、浪流と希望の魂のはかない小天地である。
こういう性格は、文化都市の一つの心臓として欠くべからざるもので、文化のあるところ、必ずつきまとうもの、これが失われては、浅草はない。
これからの浅草は、よい脚本と、よい芸でなければならぬ。特に女優や踊りに、色けがなければ、ならぬ。
私は酔っ払うと、女優さん踊子さん方に必ず云うのである。芸なんかどうでもいゝさ、先ず、舞台で、色っぽい女でなきゃ、いけません、と。
そして私は浅草の演出家に言うのである。そんな君、そこで声を大きく、とか、身振りを大きく、とか、そんな問題じゃアないぜ。女はもっと色っぽく。それだけだ。一も二も百も万も、色気々々々々、それあるのみ。
私は戦争中から、浅草で酔っ払うと、こう言いつづけてきたのである。
まったく、歯がゆくなるのである。私のお酒につきあってくれる彼女たちは、なんと可愛いゝ彼女たちであろうか。妖婦じみた色っぽいのや、年増の色気や、清楚な色け、みんな色気でいっぱいなのだ。そのくせ、舞台へあがると、死んだ女になってしまう。たゞ女の形をした死んだ演技があるだけである。
むかし、高清子という人があった。この人には、変テコな色気があった。色々な女の、色々の色気がなければならぬ。
ロッパ一座の成功の陰には、三益愛子と能勢妙子の相反する二つの色ッポサが与《あずか》って力があったと私は思う。
タロちゃ
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