。私は子供の時から日本海へとびこみ、この海で、又、砂浜で、身体をねり運動神経を発達させたので、馬鹿の一つ覚えといふからそれから二十何年もすぎたこの期に及んでも身体の訓練といふことを思ふと古巣へ戻つて鍛へようといふ頭の働きにもなるのだが、又一つは、知らない土地では食糧がない、新潟は穀倉などゝいふ通り、三ヶ月ぐらゐ居候をしても誰も文句を言はぬぐらゐ米があるのだ。
 朝、昼、夕、三度づゝ海へ行く。雨が降つても、低気圧襲来大暴風雨狂瀾怒濤といふ時でも、風をひいて熱があつても出掛けて行くので、人ッ子一人ゐない狂瀾怒濤にくる/\まかれたり、ぐい/\引きこまれたり、叩きつけられたり押し倒されたり、あまり気持のいゝものではないが、他日輸送船がひつくり返つてみんな死んでも自分だけ助からうといふ魂胆だから、かうして人ッ子一人ゐない暴風雨下、暗澹たる空の下に、波にくる/\まきつけられて叩きつけられてゐると、いつたい外の日本人は自殺するつもりなのかな、と自分だけひどく頼もしくなつてくるほどだ。いゝ年をして、と笑ふなかれ。四十五十面さげて二等卒で召集される、それが戦争の現実ではないか。
 この新潟の海には、昔、村山臥龍先生といふ水泳術の大家がゐて(私は姓名に記憶違ひがあるかも知れぬ。先生の碑は寄居浜《よりいはま》の砂丘の上から日本海を見下してゐる)新潟から佐渡まで泳いだ。新潟の海で遠く佐渡の島影を見て泳いでゐると、私などでも、あゝ泳いで行つてみたいな、と泳げもせぬくせに考へるもので、直線距離で三十二|哩《マイル》といはれてゐる。先生は佐渡まで泳ぎついたが、さて、又、新潟まで泳いで戻らうと出発して、そのまゝ先生の消息は地上から消えたのである。私が子供の頃教はつた水泳の先生方はこの臥龍先生の弟子に当られる方々であつた。
 私が二十二三の頃であつたが、夏休みで帰省してゐるとき、海軍の水泳教官のたしか岩田とかいふ人物が新潟佐渡間を泳ぐためにやつてきた。臥龍先生の頃と違つてジャーナリズムの時代だから先づ新聞社で挨拶する、講演もする、モータアボートをお供につれて出発したが、朝三時といふ出発が四時半頃で、私も夜明けの浜へ見に行つたが、妾だか芸者だか連れてきて、その女に送られて海へはいつて行つた。十六時間で泳ぐつもりだから、ちやうど夕方暗くなるころ着くだらうと何でもないやうに言ひ残したのを私はきいたが、私は
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