満潮の海を泳いで上つてきた。鉢巻をしめて頭上に松明《たいまつ》をさしこみ、これに火をともして荒れ模様の夜の海を半刻《はんとき》あまりも泳いできたのである。神火が荒れ海に燃えてゐるといふので村の人々は驚愕して海辺に坐つて火を拝む始末であつたが、男は水中で松明を消して小左衛門の裏庭の浜へ上つてきた。こゝならば村の者には見つからない。あいにく小左衛門はたつた一人裏庭へでゝ神火を見てゐた。海から上つてくる男に向つて誰かと叫ぶと、あゝ、あんたか、と、男はすり切れたやうな声で答へたゞけだつた。さすがにこの男も冬の荒れ海の水練に疲労困憊してゐたのである。男は暫く汀にうづくまつてゐたが、やがて起き上つて腰に巻きつけてゐたヂシビリナ(鞭)をほどくと、力一ぱい自分の身体を殴りはじめた。散々に殴り、血にまみれ、喘ぎながら小左衛門の牛小屋に辿りつくと、へたばるやうにもぐりこんで藁をかぶつて寝てしまつた。
この男が何のためにこの島へきて小左衛門の地所を借りたか、だんだん意味が分つてきた。この男は、先づ一冊の本をたづさへてきたのである。この本は二十五年前上津浦に布教してゐたマヽコスといふ外人神父の書き残した予言
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