兵衛は長崎の二官の店でヒエロニモ四郎に洗礼を授けた当の神父であつた。
 四郎は八ツの年に二官の店に丁稚奉公にあがつたが、彼はいはゆる神童で、この界隈では四五歳の四郎の筆蹟を額におさめて珍蔵する家もすくなからぬ程だつた。
 十三の年に独立して、二官の店の商品、舶来の小間物類を船につみこみ、京、大坂、江戸で売りさばくために父親の甚兵衛と共に出発したが用心棒といふ以外に父親の同伴の意味はなかつた。大人よりも利巧であつたし、商才に富んでゐた。
 二官の義弟の陳景《のぶかげ》は長崎の市長であつたが、四郎は当然王侯たるべき人ではあるが、世を危くする気質まで蔵してゐる、と予言した。二官は四郎先生とよんで自慢のあまり過当に四郎を代理に立てゝ一人前に振舞はせて喜びまはつてゐたのであつたが、応対の礼儀などでも大人以上の落付と余裕があつたし、思慮分別にも富んでゐた。四周にたゞ賞讃の言葉だけしか聞き知ることのなかつた四郎は、何が賞讃の要件であるか、更に賞讃せられるために如何にすべきか、本能的に会得してをり、常に効果を測定してゐた。けれども彼は十三であり、そしてあらゆる少年よりも更に空想的な少年だつた。彼は自在の力を信じ、自己の万能を空想したが、常に賞讃にみたされた通路に狎れて、野放図な子供の空想がそつくり大人の現実的な野心と計画に育つてゐた。
 元々大人の年齢は多くは蛇足で、経験といふ不手際なツギハギによつて、要するにその人間の器量に相応したツギの当て方をしてゐるといふだけのことだ。子供の着物はまだツギが当つてゐない。彼らは空想的で大人達が器量相応のこと以上に踏みだす力を失つてゐるのに、彼らは思ひのまゝの何事もできると考へてゐる。だから彼らは利巧のやうでも子供だと言はれ、まだツギの当らぬ着物が、要するに之からの一足毎に破れて、ツギハギだらけになつたときに一人前になるだらうと考へられてゐるのである。
 けれども経験といふ不手際なツギハギが叡智の栄光でないことは大人達も認めてをり、彼らはツギの当らない着物の美しさを忘れてゐないばかりでなく、眩惑されたり、時に本能的な喝采を送りたがる愚昧な感動を忍ばせてゐる。それはもう愚昧の外の言葉はない。このツギハギを取り除けば大人は子供に附け加へた何の値打も持つてはをらず、分別の殻を負ふてゐるだけ始末の悪い気違ひだつた。彼らは間違ひを合理化し益々愚昧に落込むことを急ぐのだ。
 すべてそれらの大人達の愚かさを四郎は別の角度から見抜いてゐた。彼らは正直で狡猾で一定の複雑な内容を持つてゐるが、発育の止つた身長と同じやうに全てがすでに限定せられて、要するに使役に馴らされてゐるといふことだつた。自分を常に大人達のその上に置いて、彼は絶対の王者を夢み、やがて確信しはじめた。
 彼らが商品を船に積みこみ明朝出発するといふ前夜のことだが、その晩長崎の二官の店では四郎父子を主賓に小さな饗宴がひらかれてゐた。そのとき飄然訪れたのが金鍔次兵衛で、彼は江戸から逃げ戻つて、長崎の二官の店へ辿りついたところであつた。
 逃亡と潜伏、死の戯れの半生に次兵衛の魂は孤絶したが、孤絶せる魂には死生も亦たゞ退屈にすぎず、魂の結び目をとく何物もなかつたけれども、たゞ人間の肉体、容貌の美といふことが異常な刺戟になるのであつた。彼は九ツのそして十のヒエロニモの目覚めるやうな可憐さを忘れる筈はなかつたが、今眼前に再会した十三のヒエロニモは処女よりも清く美姫よりもなまめかしく、そして全ての効果を意識した利巧さが娼婦の本能であることをどうして次兵衛が見逃さう。彼は美なる肉体の猟犬であり、悪魔の臭覚をもつてゐた。彼の魂は昏酔し、恍惚として肉体の上を遊楽した。孤絶せる魂に恋はない。毒血の麻薬的な明滅だつたが、この少年を自己の運命の圏外へ手放すことに異常な恐怖に襲はれた。
 四郎はかゝる不自由な身動き、否、全然予期せざる身動きが自然に流れでゝ行くことを曾て記憶にとゞめてゐなかつた。それは娼婦がその正体を見抜いた人に接した時に自然に動く媚態であるといふことに気付く筈はなかつたが、彼はいくらか困惑し、意識の底では訝しげに眉をひそめてみるのであつたが、その顔色は益々冴えるばかりであつた。彼は次兵衛が怖かつた。そして次兵衛に傾倒した。
 翌朝、次兵衛はまだ夜の明けぬうちに目が覚めた。朝ごとに訪れる怒りと悔恨が、その日は特別ひどかつた。彼は不快な夢を見た。夢の中では捕吏や役人と談合し、その歓心を得るために卑屈に振舞ひ、数々の卑劣なことをするのであつた。この安らかな蒲団の奴が、と彼は蒲団をはねのけて腰のヂシビリナ(鞭)を握りしめたが、わけの分らぬ絶望のために放心し、両手に顔を掩《おお》ふてゐた。まだ街はねむつてゐたが、二官の家では四郎父子の出発のために立働く音がしてゐる。彼らはこの蒲団
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