を、そして寝室を、さらに広大にするために働いてゐるのであらう。あのヒエロニモまで。彼はなぜ京や大坂や江戸の町へ異国の小間物を商ひに行くか。次兵衛は唐突な怒りのために狂乱した。
彼は直ちに着物をつけて四郎の部屋をたゝき、彼をよびだして、まだ明けきらぬ丘へ登つた。
「ヒエロニモよ。お前は大坂や京や江戸の町へ、商ひのために首途《かどで》につく。だが、ヒエロニモよ。よく考へてみるがよい。お前はなぜ商ひにでかけるのか。そのわけが分つてゐるかね。お前はお金をもうけるためか。さうして、そのお金で何をするつもりだらうか。さア、わたしに考へを語つてきかせてごらん」
「お父さんやお母さんを安楽にさせてあげるためです」
「そのお金でか!」
「いゝえ、神父《パードレ》さま、私はお金のことばかり考へてゐるわけではありません。霊《アニマ》のたすかりのことを第一に忘れてはをりませぬ。また、慈善の心も忘れてはをりませぬ。幸ひ多少の富ができたなら、父母と同じやうに、他の人々をも幸せにすることが出来るでせう」
「その考へは誰でも、当然さうでなければならないことだ。ヒエロニモよ。お前はこの世をどう考へてゐるか。切支丹の尊い教は邪教の人々によつて禁制せられてゐる。清い正しい奉教人がその清さ正しさのために捕へられて、見よ、あの殉教の丘で何人の人々がその血を流し、又、生きながら焼かれて死んだか。私たちが生きながらへて奉教人の道を失ふまいと思ふなら、私のやうに野に伏し山に寝て人目をくゞるか、さもなければ聖像を足にふみ不信を天主様に詫びながら悔恨の多い一生を辿らなければなるまい。このまゝで良いとお前は思ふか。このやうな汚れた世に、あくせくとお金をもうけ、そのお金で身の小さな安穏をはかり、それを孝養だの慈善だのと呼ぶことが怖しいとは思はぬか。それが天主様のお心にかなうことだとお前は考へてゐるのかね」
「神父さまのお言葉の意味が良く分りませぬ。教へて下さいませ。私はどうすればよろしいのですか。私は間違ひを改めます。天主様のお心にかなひ、神父さまのお心にかなう正しい道があるならば、私は必ずその道を歩きます」
「よし、よし。たゞ、それだけで良いのだ。お前は安心して江戸へ行つてくるが良い。商ひをしてくるがよい。だが、ヒエロニモよ。私の言葉、天主様のお心にかなう正しい道がたゞ一つあるといふことを忘れるな。やがてその道がお前の眼前にひらかれてくるだらう。それはな、世の中がこのまゝであつてはならぬといふことだ。旅にでゝ、異教徒どもの世の中、奉教人の許されぬ世の中が、どのやうな汚れにみちみちてゐるか、良く見てくるがよい。世の中がこのまゝであつてはならぬといふ御主の声がお前の耳にひゞくであらう。その日その時を忘れるな。そしてそれからお前が何を考へるか、お前の口からきく日まで、私はそなたの旅の帰りを何よりの楽しみに待ちかねてゐよう。さア、人々が待つてゐる。お前はでかけて来るがよい」
次兵衛の胸ははれてゐた。彼は美しい少年を見てゐるうちは安心しきつてゐられたし、やがては彼のもとに戻り、同じ運命を辿るであらうといふことを信じることもできるのだ。夜明けの冷めたさが彼の壮烈な活動力を気持よくなでゝゐた。するともはや彼は瞬時もとゞまりがたい活気のために幸福でいつぱいだつた。この町、あの村に残して行つた信徒たち。もし彼らが殉教をまぬかれて生きてゐたら、苦しみを分ち、新しい勇気を与へるために、次兵衛は希望の豊かさに満足した。彼の三十四の肉体は流浪の生活に衰へを見せぬばかりか、その感情は二十の若さから全く老けてゐなかつた。あゝ、二年ぶりで見るなつかしい港、四郎に別れて丘の藪をかきわけながら、口笛を吹き、枯れそめた木々に呼びかけてゐた。金鍔次兵衛神父様の御帰還だ。さア、新しい闘争が、この丘で、また、始まるぜ。忘れ得ぬ捕吏の顔まで、友達のやうに思はれるのだ。
一年の歳月が流れ、再び秋が訪れて、商品を売りつくした四郎父子はやうやく帰途についてゐた。
異郷の空で日毎に見知らぬ顧客に対して、歓心をひき、計算し、秘密な心理の勝敗を意識しつゞけた四郎は、急速に特異な発育をつゞけてゐた。医者が患者を見るときの物質的な冷めたさが、人に対する彼の心の底面積になつてゐた。それが全て人々の賞讃から得た果実であり、人の世の平凡、常識、低俗に、虚無的な退屈を負ふた。すでに彼は十四にして断崖に孤絶し、足もとの奈落を冷然と見て、遠いふるさとに呼びかけてゐた。絶対の王者。呼べばすでに答へがきこえる。彼は聖処女の山師であつた。
彼らは大垣の宿をでゝ、南宮山を眺めながら関ヶ原を歩いてゐた。たゞこの古戦場を見るために帰りの旅に陸路を選んだ甚兵衛は感無量であつた。小西行長の祐筆《ゆうひつ》の家に生れた彼は幼少のため関ヶ原の合戦に参加せず、故郷
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