り名で日本全土に知られてゐたが、その本名は誰も知らない。大村の生れで、父はレオ落合小左衛門、母はクラヽ、貧乏な武士で、両親共に殉教者であつたといふが、彼は少年時代から有馬の神学校で育ち、欧羅巴《ヨーロッパ》人と同じぐらゐラテン語を達者に話した。一六二二年、宗教的地位を得るためにマニラに渡り、二三年十一月二十六日管区長フライ・アロンゾ・メンチエダ神父によつて修道服を受け、ドン・フライ・ペトロ・デ・アルセによつて司祭に補せられた。教会に残る彼の名はフライ・トマス・デ・サン・アウグスチノ神父といふ。日本潜入を願ひでゝ、一六三〇年二月二日乗船、マリベレス島で難船したが助かり、日本逆潜入に成功した。
 当時アウグスチノ会の代理管区長グチエレスは大村に入牢《じゆろう》中であつたから、次兵衛は長崎奉行竹中|采女《うねめ》の別当の中間《ちゆうげん》に住込んで牢舎に通ひ、グチエレスの指図を受けて伝道に奔走したが、彼の名が知れ渡りお尋者になりながら、当の長崎奉行の別当の中間に身をやつしてゐるといふことは約二年間気付かれなかつた。露顕して大村の山中に逃げ込み、このとき次兵衛一人を捕へるために大村藩は十六歳以上六十歳まで領内の男子総動員、唐津藩や長崎奉行、佐賀藩などから応援をもとめて総勢は数万に達し、全員を以て山全体をとりまいて、一人一尺の間隔で山林から海岸まで一足づゝ追ひつめて行つた。夜になると各自立止つた地点を動かず篝《かがり》をたいて不寝番を立て、三十五日を費して、遂に海まで突きぬけた。海上には数千の小舟を敷きつめて待ちぶせてゐたから漏れる隙間はなかつた筈だが、次兵衛の姿はなかつた。彼はすでに江戸へ逐電、信徒の旗本の手引で江戸城の大奥へまで乗込んで小姓の間を伝道して歩いてゐたが、江戸の生活が約二年、露顕の気配が近づくと風の如くに飄然長崎へ舞ひ戻つてきた。
 彼は危急の迫るたびに刀の鍔に手を当てゝ祈念するので、刀の鍔に切支丹妖術の鍵が秘められてゐるのだらうと取沙汰せられて、金鍔次兵衛(又は次太夫)の渾名となつたが、多分彼の刀の鍔に十字架がはめこまれてゐたのであらうと今日想像せられてゐる。刀の鍔に十字架を用ひた例は切支丹遺物の中にも現存してゐる。カトリック教徒が胸に切る十字は、あれが多分後世忍術使ひの真言九字の原形であつたに相違ない。切支丹と言へばバテレンの妖術使ひと一口に言ふが、真に妖術使ひの足跡を正史にとゞめてゐる者は金鍔次兵衛の外にはない。
 ポルトガルの商船はまた長崎に入港したが、乗員達はもはや上陸を許されず、早晩貿易禁止は必然で、日本潜入の神父も後を絶たうとし、信徒と教団の連絡は絶望的になつてゐた。潜入の神父はあらかた刑死し、フェレイラは棄教、残存するのは金鍔次兵衛ぐらゐのもので、あとは消息も分らない。
 その年の長崎及びその近郊に行はれた降誕祭《ナタル》のミサは無茶苦茶だつた。信徒達は殺気立ち、捕吏が来たら捕へて殺してしまふ覚悟で、各々の秘密集会所で祈り泣き歌ひ、牛小屋を清めて水をはり、彼らはもう死の狂躁と遊んでゐた。それは神父《パードレ》金鍔次兵衛の指図であり、絶望と破壊の遊戯は彼の姿の影であつた。逃亡潜伏に熟達した次兵衛はとにかく、信徒達の狂躁が捕吏に分らぬ筈はない。彼によつて修道服を受けた数人を始め七百名余りの信徒達が一網打尽となり、刑場に送られて焼き殺されてしまつたが、次兵衛のみは風であつた。彼は天草へ舞ひ戻り、鳥銃をぶらさげて冬山の雑木林をぶら/\歩いてゐたのである。
 あの男は平和な人々を破壊と死滅へ追ひ立てる気だ、と渡辺小左衛門は悟つた。彼は天草最大の富豪であり、和漢を始め洋学にも通じたディレッタントで引込思案の男であつたが、レシイナに向けられた陰惨な眼を思ひだすと渾身の勇気がわいてきた。それは彼が安穏を欲するからであつたけれども、又、レシイナを熱愛してゐたせゐだつた。あの陰惨な魂の破壊の影が自分とレシイナの平和にまで及ぶだらうと考へると、曾《かつ》ては最大の敬意を以て迎へた神父であつたけれども、秘密に殺したくなつてきた。気違ひめ。俺は気違ひは嫌ひなのだ。そして天草の人間は、今はもう、一人残らずみんな気違ひにならうとしてゐる。あゝレシイナお前まで、お前はまさか弟の四郎が天人だと思ふ筈はないだらう。いゝえ、とレシイナは答へた。気の毒な農民達は畑の物を根こそぎ税に納めねばならず、食べる物もありませぬ。ゼスヽ様の御名を唱へても殺されます。世の中がこのまゝのやうで宜しい筈はございませぬ。あゝ、小左衛門は絶望した。だが、何といふ女であらうか。彼は異様に新鮮な色情すらも見たのであつた。全てが分らなくなつてきた。神とは何者であるか。四郎は何者であるか。そしてレシイナよ、お前まで俺の分らぬところへ飛び立つてしまひさうな気がする。
 金鍔次
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