目に泌むものは、家や木や道や、すべて太陽に呑まれた現実の夏であつた。私はそれらを、奇蹟のやうに驚異して、しばらく呆然と視いるのであつた。頬に這ふ汗を、私は知らず拭いてゐた。
彼女はいはば、私の中に、このやうに実感の稀薄な存在であつた。私は、少女の彼女を記憶の中に知つてゐた。それは疑ひもなく真実であつた。しかし彼女は、私の知らぬ間に、私の中に生長してゐた。そして、私の中に生長した彼女は、もはや現実に成育してゐる彼女とは別の人であるのかも知れなかつた。私の中の彼女は、いはば一つの概念であり、一つの象徴であるのかも知れなかつた。しかし、その概念を追ふて、北国の港町へ太陽を泳いできた私は、概念でもなければ、象徴でもなかつた。それは現実の私だつた。現に今、ものうい路に埃を浴びて歩いてゐた。疲れてはゐるが、生命と、青春を持つてゐた。それ故彼女も生きていた。彼女は力であつた。一目見ることのほかに、そして彼女を追ふことの外に、私に何の計算もなかつた。
かやうな私を眺めやるとき、私は私が、夢のやうに遠い、茫漠とした風景であるのに気付いてゐた。私は、ふるさとに点々と私の足跡を落しながら、この現実の瞬間
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