それに水を撒いた。
数日の中には、流石に一人知り人に出会つた。二三の立ち話を交へて、笑ふこともなく、別れた。又一人会つた。彼は年老いた車夫だつた。私に、車に乗ることを、しきりにすすめた。私をのせて、車は日盛りに石のある道を廻転した。年と共に隆盛である幸福を、歌ふやうに彼は告げた。私は、よろこばしげに笑つた。幌がふるへた。ビヤホールに一人の女給が、表戸を拭いてゐた。車夫の家で、私達は水瓜《すいか》を食べた。
彼女の家に、別の家族が住んでゐた。幼かつた少女が、背をもたせて電線を見てゐた門は、松の葉陰に堅く扉を閉ぢてゐた。三角の陽が影を切つた。
私は耳を澄ました。私は忍びやかに通りすぎた。私は窓を仰いだ。長くして、私はただ笑つた。私は海へ行つた。人気ない銀色の砂浜から、私は海中へ躍り込んだ。爽快に沖へ出た。掌は白く輝いて散乱した。海の深さがしづもつてゐた。突然私は死を思ひ出してゐた。私は怖れた。私の身体は、心よりも尚はやく狼狽しはぢめてゐた。私の手に水が当らなくなつてゐた。手足は感覚を失つた。私の吐く潮が、鋭い音をたてた。私は自分が今吹き出していい欲望にかられてゐることを、滑稽な程
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