蝉の鳴き泌む松林が頭をゆすぶつて流れた。私は茱萸藪の中に佇んでゐた。
その頃、私は、恰度《ちょうど》砂丘の望楼に似てゐた。四方に展かれた望楼の窓から、風景が――色彩が、匂が、音が、流れてきた。私は疲れてゐた。私の中に私がなかつた。私はものを考へなかつた。風景が窓を流れすぎるとき、それらの風景が私自身であつた。望楼の窓から、私は私を運んだ。私の中に季節が育つた。私は一切を風景に換算してゐた。そして、私が私自身を考へた時、私も亦、窓を流れた一つの風景にすぎなかつた。古く遠い匂がした。しきりに母を呼ぶ声がした。
私は、求めることに、疲れてゐた。私は長い間ものを求めた。そのやうに、私の疲れも古かつた。私の疲れは、生きることにも堪え難いほど、私の身体を損ねてゐた。私は、ときどき、私の身体がもはや何処にも見当らぬやうに感じてゐた。そして、取り残された私のために、淡い困惑を浮べた。私の疲れは――たとへば、茱萸の枝に、私は一匹の昆虫を眺めてゐるのであつた。昆虫は透明な羽をかぼそく震はせてゐた。私は私の身体が、また透明な波であることに気付いてゐた。それは靄よりも軽い明暗でしかなかつた。昆虫の羽の影が
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