とした。私は腹の中で笑つた。私は、かたくなに、振り向くことを怖れた。全ては偶然であれ。私の悲しみも、私の恋人も(いはば笑ふべきインテロゲエションマークである恋人も)、偶然と共に行き過ぎよ。あれがその人ではなかつたかと思ふ追悔によつて、おまへの悲しみは玉となる日があるであらう、と。
 彼女とは?……いつたい、彼女とは誰であらうか? つきつめて思ふとき、彼女の面影は、いつもその正確な輪廓を誤魔化し、私の目から消え失せるのであつた。消えてゆく形を追ふて、私はいそいで目をつぶるのであつた。もはや、暗闇だけがそこにあつた。私はそこに、一つの面影を生み出さうとした。黒色の幕に、私は白色の円形をおいた。私はそれに、目を加へ、鼻を加へ、口を加へやうとした。私は、私のミューズが造型の暗示を与へるまで、しづかにその円を視守《みまも》らうと努めるのであつた。白色の円は意地悪く伸縮した。そして私が一点を加へやうとする度に、陰険に、他の一点を消し去らうとした。私はそれを妨げるために、私の点描に速力を加へるのであつた。私の癇癪にそうて、円も亦旗のやうに劇しく揺れた。あきらめて、私は目を開けるのであつた。さわやかに目に泌むものは、家や木や道や、すべて太陽に呑まれた現実の夏であつた。私はそれらを、奇蹟のやうに驚異して、しばらく呆然と視いるのであつた。頬に這ふ汗を、私は知らず拭いてゐた。
 彼女はいはば、私の中に、このやうに実感の稀薄な存在であつた。私は、少女の彼女を記憶の中に知つてゐた。それは疑ひもなく真実であつた。しかし彼女は、私の知らぬ間に、私の中に生長してゐた。そして、私の中に生長した彼女は、もはや現実に成育してゐる彼女とは別の人であるのかも知れなかつた。私の中の彼女は、いはば一つの概念であり、一つの象徴であるのかも知れなかつた。しかし、その概念を追ふて、北国の港町へ太陽を泳いできた私は、概念でもなければ、象徴でもなかつた。それは現実の私だつた。現に今、ものうい路に埃を浴びて歩いてゐた。疲れてはゐるが、生命と、青春を持つてゐた。それ故彼女も生きていた。彼女は力であつた。一目見ることのほかに、そして彼女を追ふことの外に、私に何の計算もなかつた。
 かやうな私を眺めやるとき、私は私が、夢のやうに遠い、茫漠とした風景であるのに気付いてゐた。私は、ふるさとに点々と私の足跡を落しながら、この現実の瞬間
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