が、思ひ出されてゐる夢であるやうな遠さに、いつも感じつづけてゐた。私は、その上夢を、その風景を、あかずいとほしんだ。風景である私は、風景であるし彼女を、私の心にならべることをむしろ好むのかも知れなかつた。そして風景である私は、空気のやうに街を流れた。街を燕が、そして私を、横切つていつた。
街の埃と、街の騒音が、深く私に泌みてゐた。ただ孤り、しづかな杜に潜む時でも、皮膚に泌みた街の騒音が、私の身体をとりかこんでゐた。砂山で、高くはれた夜の下にも、皮膚にうごめく雑踏の跫音《あしおと》をきいた。それは夜空へ散つていつた。そして、発散する騒音と入れ換りに、夜の静寂が、又ある時は磯の音が、さえざえと私に泌みた。何物か、私の中に澄み切らうとする気配がしてゐた。夜空が、すべて宇宙が、甘い安心を私に与へた。
或る夜は又、この町に一つの、天主教寺院へ、雑踏の垢を棄てにいつた。僧院の闇に、私の幼年のワルツがきこえた。影の中に影が、疑惑の波が、半ばねぶたげな夢を落した。ポプラアの強い香が目にしみた。さわがしく蛙声《あせい》がわいた。神父はドイツの人だつた。黒い法衣と、髭のあるその顔を、私は覚えてゐた。そのために、羅馬《ローマ》風十字架の姿を映す寂びれた池を、町の人々は異人池と呼んだ。池は、砂丘と、ポプラアの杜に囲まれてゐた。十歳の私は、そこで遊んでゐた。ポプラアの杜に、あたまから秋がふけた。時雨が、けたたましく落葉をたたいて走りすぎた。赤い夕陽が、雲の断れ間からのぞいた。私はマントを被つてゐた。寺院の鐘が鳴つた。釣竿をすてて、一散に家へ、私は駈けた。降誕祭に、私は菓子をもらつた。ポプラアの杜を越えて、しもたやの燈りが見えた。窓が開け放してあつた。裸の男女が食事してゐた、たくましい筋肉が陰を画いた。昔はそこに、私の友人が住まつてゐた。私より四五歳年上であつた。町の中学で一番の暴れ者だつた。柔道が強かつた。私は一年生だつた。私は毎日教室の窓をぬけ出して、海岸の松林を歩いた。彼は優しい心を持つてゐた。彼によく似た私を、彼の堕ちた放埒から遠ざけるために、はげしく私を叱責した。人々は、私を彼の少年だと誤解した。私は町の中学を放校された。彼は猟に出て、友人の流れ弾にあたつて、死んだ。
僧院の窓はくらく、祈祷の音も洩れなかつた。何事か、声高く叫びたい心を、私は切に殺してゐた。騒がしい食膳の音が流
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