。それに月が落ちていた。姉はそれに水を撒いた。

 数日の中には、流石に一人知り人に出会った。二三の立ち話を交えて、笑うこともなく、別れた。又一人会った。彼は年老いた車夫だった。私に、車に乗ることを、しきりにすすめた。私をのせて、車は日盛りに石のある道を廻転した。年と共に隆盛である幸福を、歌うように彼は告げた。私は、よろこばしげに笑った。幌がふるえた。ビヤホールに一人の女給が、表戸を拭いていた。車夫の家で、私達は水瓜を食べた。

 彼女の家に、別の家族が住んでいた。幼かった少女が、背をもたせて電線を見ていた門は、松の葉陰に堅く扉を閉じていた。三角の陽が影を切った。
 私は耳を澄ました。私は忍びやかに通りすぎた。私は窓を仰いだ。長くして、私はただ笑った。私は海へ行った。人気ない銀色の砂浜から、私は海中へ躍り込んだ。爽快に沖へ出た。掌は白く輝いて散乱した。海の深さがしずもっていた。突然私は死を思い出していた。私は怖れた。私の身体は、心よりも尚はやく狼狽しはじめていた。私の手に水が当らなくなっていた。手足は感覚を失った。私の吐く潮が、鋭い音をたてた。私は自分が今吹き出していい欲望にかられてい
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