説は完成する。金を送れ。それは大嘘であつた。マッカな嘘である。けれども本当なのだ。私は一年間一字も書いてをらず、今もなほ一字も書きだす力はなかつた。私は然し本屋をだますためではなしに、私自身をだますため、私自身に嘘ッパチの贋物の決意をつくらせるために、余儀ない命令を下すために、うそッパチな手紙を書かずにゐられないのだ。私は私自身を決死隊のあの無理強ひの贋物の決意のなかに突きださなければ仕方のない気持になつてゐたゞけだつた。
 本屋から金が来た。私はそれを握つて酒を飲みに行つた。私は気がつかなかつたが、着物をあべこべに着てゐたのである。私は人にジロ/\見られたことも意識してゐなかつた。酒をのむ家へ行き、そこの女中に注意されて、私はマッカになつた。その気持は京都を去る最後の日まで、否、今も尚、私の記憶から、消すことができない。私はその翌日から無理強ひに仕事を始めた。それは贋物の仕事であつた。私は着物をあべこべに着てゐた。私の魂が着物をあべこべに。私は――仕事をしながら、あべこべの着物を仕事自体に意識しつゞけてゐたのである。
 私は七百五十枚の小説をかゝへて東京へ戻つてきた。昭和十三年の初夏、私は然し、着物がないので、ドテラを着て東京へつき、汽車の中では刑事に調べられてウンザリしたものだ。東京で一年間、私は威張りかへつた顔をしてゐたが、自信はなかつた。そして一年たち、今年こそ本当にギリ/\の作品を書かなければ私はもう生きてゐない方がいゝのだと考へて、利根川べりの取手といふ町へ行つた。私の見知らぬ町であり、何のゆかりもない町だ。竹村書房が探してくれたのだ。彼は魚釣りが好きであり、こゝは鮒釣りの著名な足場のひとつださうで、彼の行きつけの旅館があり、そこの世話で、取手病院といふところの、そこはもう主人が死んで病院ではなくなつてゐる離れの家へ住んだのである。
 京都ではともかく満々たる自信をもつて乗りこむことができたので、そのときは書くべき題材に心当りと自信があつたからであるが、取手では、何かギリ/\の仕事をしなければ死んだ方がいゝのだ、といふ突き放された決意の外には心に充ち溢れる何物もなかつたのである。
 何よりも感情が喪失してゐた。それは芸ごとにたづさはる人でなければ多分見当のつかないことで、そして芸ごとも、本当に自信を失つて自分を見失つた馬鹿者でないと、この砂漠の無限の砂の上を一足づゝザクリ/\と崩れる足をふみぬいて歩くやうな味気なさは分らない。私はひけらかして言つてゐるのではない。こんな味気なさをかみしめねばならぬのは、馬鹿者の雀の宿命で、鷲や鷹なら、知らずにゐられることなのだ。私はもう、私の一生は終つたやうにしか、思ふことができなかつた。
 この町では食事のために二軒の家しかなく、一軒はトンカツ屋で、一軒はソバ屋であつた。私は毎日トンカツを食ひ、もしくは親子ドンブリを食つた。そして夜はトンパチといふ酒をのむ。トンパチは当八の意で、一升の酒がコップ八杯の割で、コップ一杯が一合以上並々とあるといふ意味だといふ。一杯十五銭から十七銭ぐらゐ、万事につけて京都よりは高価であつたが、生活費は毎月本屋からとゞけられ、余分の飲み代のために、都新聞の匿名批評だの雑文をかき、私はまつたく空々漠々たる虚しい毎日を送つてゐた。
 この町の生活も太平楽だつた。ある夏の日盛りのこと、伊勢甚(旅館)の息子が誘ひにきて、旅館の小舟をだして、この小舟を利根川の鉄橋の下へつないで寝ころぶのだが、これは涼しい特別地帯で、鉄橋の下の蔭を川風が吹き渡り、夏の苦しさを全く忘れ果てゝしまふ。もつとも旅館の息子は川の水をヂャブリとくんで平気でお茶をわかすが、利根川もこのへんは下流であり、あるとき舟のすぐ横へ暗紫色のふくれあがつた土左衛門が流れてきたことがあつた。この土左衛門は兵隊で、四日前に溺れて死んで、その聯隊の兵隊が毎日沿岸を探し廻つてゐたのである。
 あるとき小舟の中でねころんでゐると百|米《メートル》ほど下流に何百人の人だかりに気がついたので、ザブンと飛びこんで泳ぎついてみると、今しも人が死んだところだ。親父が釣をしてゐた。小学校四年の子供が泳いで溺れて、親父が慌てゝ飛びこんで二人とも沈んでしまつたのだ。この釣り場の川底はスリ鉢型の窪みがいくつかあつて、この窪みの深さは十尺以上で、それが幾つもあり濁つてゐるから探すのが大変な苦労である。小舟やボートが十隻ほどでて、てんでに竿で川底をさぐり、このへんで唯一人といふ泳ぎ達者の商売人の漁師がきて泳ぎ廻つてゐるけれども死体のありかゞ分らない。
 私は泳ぎの名人である。子供の時から学校を怠けてゐるから、遊ぶことは大概名手で、私が子供の頃は海が一番の遊び場だから、海は私のふるさとで、今でも私は海を眺めてゐると、それだけで心が充たされてゐるのだ。私が中学一年の時、そのころ高師の生徒で佐渡出身の斎藤兼吉といふ人がオリムピックに出場して、片抜手で自由型を泳いで、カワナモクのクロールに惨敗して、クロールを習ひ覚えて帰つてきた。この人を例年のコーチにしてゐた新潟中学ではその年すでに日本で最初のクロールを覚えたわけで、私はつまりカワナモク型の最も古風素朴なクロールを身につけたわけである。然し私はそれよりも潜水の名手なので、少年時代は五〇米プールを悠々ともぐつたものである。尤もあるとき腕にまかせて海の底へもぐりこみ、突然グァンと水圧で耳をやられ、幸ひ鼓膜は破れなかつたが、危く気を失ふところで死にかけたことがあつた。
 かういふ私であるから取手唯一の河童漁師などがヘッピリ腰でもぐつてゐるのはをかしくて仕方がない。私はオッチョコチョイだから、ざんぶと飛びこみ、川の底をもぐり廻つて、忽ち死体をつかみあげた。かういふと話は簡単だが、事実話は簡単なのだが、私の心にだけはさうでないことが起つたのである。みなさんは先づ川の底といふものが海の底のやうに透明でなく、土の煙りが濛々と立ち上り半米ぐらいしか視界がきかない暗さであることを知る必要がある。その半米の視界も土の煙りが濛々とうづまいて極めてかすかな明るさでしかないのである。突然私の目の前へニュウと腕が突きでゝきた。それは川底の流れにユラ/\ゆれ、私の鼻の先へ私をまねいてゐるやうにユラ/\と延びてきたのである。川底の暗さのために、腕だけしか見えなかつたのは、まだしも私の幸せであつたらう。それは子供の片腕だつた。私はそれを掴んで浮き上つたのだが、水の中の子供の身体などは殆ど重量の手応へがないもので、ゴボウを抜くといふその手応へを私は知らないが、あんまり軽くヒョイと上つてきたのでびつくりした程だつた。私が首をだす。つづいて死体の腕をグイとひきあげると、アヽ、といふ何百人の溜息が一度に水面を渡つてきた。だが私は、再び水底へもぐる勇気はなかつた。私の最初にひきあげたのが親父の方であればまだ良かつたかも知れぬ。なぜなら子供の死体の方はそれほどの凄味も想像されぬからで、親父の死体が今もなほ渦まく濛気の厚い流れの底にあり、今度はユラ/\した手でなしに、その顔がニューと私の目の前へ突きでてくる時のことを想像すると、とても再びもぐる勇気がなかつた。
 伊勢甚の息子はひどくカンのいゝ青年で、私が子供の屍体をひきあげると、すぐ、戻りませうよ、と言つた。そして二人が小舟へ戻ると、困つたことに、私が舟へ立てかけておいた大事のステッキがなくなつてゐる。飛びこんだハズミに落ちて流れたのだ。この籐のステッキは無一物の私がたつた一つの財産に大事にしてゐたもので、それはステッキを愛用した人でないと分らないが、身体の一部の愛着がわくもので、私の嘆きは甚大だつた。幸ひ小舟にはモーターがついてをり、まだガソリンがあつたので二三|哩《マイル》下流まで追つかけてみたが見当らなかつた。もう水面はたそがれて暗くなつてゐる。たそがれの水面を低く這ふやうに走るといふことはいゝ気持のものではないが、例の屍体の沈んだところを通ると、もう岸に人影はなく、たつた三隻の小舟だけがもうあたりもしかとは見えない暗い水面に竿を突つこんで屍体を探してゐる。水からの蒸気がそれをかすかに包んでをり、オーイ、もう一度もぐつてくれないかオーイ、オーイ、と呼んでゐる。冗談ではない。真昼の太陽の下でも、もぐるのが怖しくなつてしまつたのだ。
 その日から私は小さな町の英雄になり、伊勢甚の子供が私のステッキのことを誇大に言ひふらして私がわが子供の如くに愛してゐたこと(それは本当だが)を吹聴するから、町の有志が心配して利根川の下流へステッキ捜索の立札をたてゝくれた始末であつた。
 わが魂をさがしあぐね、ひねもす机の紙を睨んで、空々漠々、虚しく捉へがたい心の影を追ひちらしてゐる私にとつて、人の屍体をひきあげて人気者になり、残つた屍体をひきあげかねて逃げだしてきた馬鹿らしさ、なさけなさ。私はあの小さな田舎町を思ひだすことが実際苦痛だ。私はあの町を立去つて以来、再び訪れたこともなく、思ひだすことも悲しい。虚しさとは、そして、その虚しさの愚かさのシムボル自体があの英雄で、この町に何とか稔といふ私よりも年長の文学青年がゐて、私の例の屍体引揚げ作業を見てゐて葉書をよこして遊びにくるといふから、私は胸のつぶれる苦しさ憎さで、あなたはイソップ物語を知つてゐますか、子供が石を投げて遊んでゐますが池の中の蛙には命の問題です、と返事を書いた。ある日トンパチ屋で会ふと向うから話しかけて文学の話を始めたから、バカヤロー、私は怒鳴つて帰つてきた。私はほんとに我がまゝだ。彼はちつとも悪くはない。たゞ私は、私自身が考へる苦しさのために、考へる代りに酒をのんでゐるのに、見も知らぬ遠い方から近づいてきて文学の話などやりだすから怒るので、文学は話ではないよ。それは私自身で、私がそれを表現するか、さもなければゼロだ。私が偉い人で、自信のある人間なら、怒らずにゐられる。すでに一年、一行の文字も書くことができず、川の底の屍体をひきあげて町の鼻たれ子供にほめられてもてはやされて、わが身の馬鹿さを怒らずにゐられるものか。酒をのむたびに不機嫌になり、怒るやうになつたのは京都からであつた。それは尚数年つゞき、太平洋戦争になつてから、だんだん怒らなくなり、否、怒ることすらもできなくなり、その代り、エロになつた。酔払ふと日本一の助平になるのであつた。
 取手の冬は寒かつた。枕もとのフラスコの水が凍り、朝方はインクが凍つた。朝方はインクが凍るなどといふと如何にもよもすがら仕事をしてゐるやうであるが、たま/\何か酒手のための雑文を書いて徹夜ぐらゐはしたこともあつたであらう。仕事らしい仕事はたゞの一行もしてをらず、してをらずではなくて、するだけの力、実力といふものがないのであつた。三文々士は怠け者ではない。何を書いても本当の文字が書けないから、筆を投げだし、虚空をにらんでヒックリかへつてひねもす眠り、怠け者になつてしまふだけだ。利根川べりのこの町はまつたく寒い町だつた。すると私の悲鳴がきこえたのか、三好達治から小田原へ住まないか、家があるといふハガキがきたから、さつそく小田原へ飛んで行つた。小田原は知らない町ではない。牧野信一が死んだ町であり、彼が生きてゐた頃女に惚れて家をとびだし行き場に窮して居候をしてゐたこともある町で、昆虫採集の大好きな牧野信一とミカン畑の山々を歩き廻つたこともあつた。よく/\居候に縁のある町で、今度は三好達治の居候であつた。もつとも別な家に住み、食事の時だけ三好の家へでかけて行く。
 戦争のために物の欠乏が現れはじめ、それが私にも気付いたのは取手の町にゐる時であつた。木綿類がなくなつた、東京になくなつたといつて、若園清太郎が買ひにきた。私のところへ世帯じみた話をもたらすのは常にこの男だけで、女房をつれ、子供をつれ、子供のオシメを持つて遊びにきて世帯の風を残して行くので、私が小田原へ越して後も、私のところに鍋も釜も茶碗も箸もないといふので食事道具一式ぶらさげ、女房も子供もオシメもつれてやつて来て、変てこな料理をこしらへて
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング