ぐうたら戦記
坂口安吾
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)取手《とりで》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)百|米《メートル》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ハラ/\
−−
支那事変の起つたとき、私は京都にゐた。翌年の初夏に東京へ戻つてきて、つづいて茨城県利根川べりの取手《とりで》といふ町に住み、寒気に悲鳴をあげて小田原へ移り、留守中に家が洪水に流されて、再び東京へ住むやうになり、冬がきて、泥水にぬれたドテラを小田原のガランドウといふ友人のもとに残してきたのを取りに行つた。翌朝小田原で目をさましたら太平洋戦争が始つてゐたので、田舎の町では昼は電気のこない家が多いのでラヂオもきこえず、なんだか戦争が始まつたやうだよ、などとガランドウのオカミサンが言ふのを、仏印と泰《タイ》国の国境あたりの小競合《こぜりあい》だらうぐらゐにきゝ流してゐた。正午ちかく床屋へ行かうと思つて外へでて、大戦争が始まつてゐるのに茫然としたのであつた。
国の運命は仕方がない。理窟はいらない時がある。それはある種の愛情の問題と同様で、私は国土を愛してゐたから、国土と共に死ぬ時がきたと思つた。私は愚な人間です。ある種の愛情に対しては心中を不可とせぬ人間で、理論的には首尾一貫せず、矛盾の上に今までも生きてきた。これからも生きつゞける。
それは然し私の心の中の話で、私は類例の少いグウタラな人間だから、酒の飲めるうちはノンダクレ、酒が飲めなくなると、ひねもす碁会所に日参して警報のたびに怒られたり、追ひだされたり、碁も打てなくなると本を読んでゐた。防空演習にでたことがないから防護団の連中はフンガイして私の家を目標に水をブッカケたりバクダンを破裂させたり、隣組の組長になれと云ふから余は隣組反対論者であると言つたら無事通過した。近所ではキチガヒだと思つてゐるので、年中ヒトリゴトを呟いて街を歩いてゐるからで、私と土方のT氏、これは酔つ払ふと怪力を発揮するので、この両名は別人種さはるべからずといふことになつて無事戦争を終つた。
私が床屋から帰つてくると、ガランドウも箱根の仕事先から帰つてきて(彼はペンキ屋だ)これから両名はマグロを買ひに二宮へ行かうといふのだ。私はドテラもとりに来たが魚も買ひにきたのだ。してみると、そのころからすでに東京では魚が買へなくなつてゐたらしい。そして小田原にも魚がなくて、ガランドウが二宮の友人の魚屋へ電話をかけて、地の魚はないがマグロが少々あるからといふので、それを買ひに行つたのだ。東海道をバスで走つた。私は今でもあの日の海を忘れない。澄み渡る冬の青空であつたが、海は荒れてゐた。松並木に巡査が一人立つてゐた。その姿の外に戦争を感じさせる何物もありはしなかつた。二宮の魚屋で私達は店先に腰を下して焼酎を飲み、私はひどく酔つ払つて東京行の汽車に乗つたが、私の汽車が東京へつかないうちに敵の空襲をうけるものだと考へてゐた。私は全く気が早い。私はつまり各国の戦力、機械力といふものを当時可能な頂点に於て考へてゐたので、この戦争がこれほど泥くさいものだとは考へてゐなかつた。皇軍マレーを自転車で進撃ときた時には全く心細くなつてしまつたので、尤も私は始めから日本の勝利など夢にも考へてをらず、日本は負ける、否、亡びる。そして、祖国と共に余も亡びる、と諦めてゐたのである。だから私は全く楽天的であつた。
私のやうに諦めよく、楽天的な人間といふものは、凡そタノモシサといふものが微塵もないので、たよりないこと夥しく、つまり私は祖国と共にアッサリと亡びることを覚悟したが、死ぬまでは酒でも飲んで碁を打つてゐる考へなので、祖国の急に馳せつけるなどゝいふ心掛けは全くなかつた。その代り、共に亡びることも憎んでをらず、第一、てんで戦争を呪つてゐなかつた。呪ふどころか、生れて以来始めての壮大な見世物のつもりで、まつたく見とれて、面白がつてゐたのであつた。私が最も怖れてゐたのは兵隊にとられることであつたが、それは戦場へでるとか死ぬといふことではなくて、物の道理を知らない小僧みたいな将校に命令されたり、ブン殴られるといふことだけを大いに呪つてゐたのである。点呼令状といふものがとゞいた日の夜、私の住む地区は焼け野原になつた。天帝のあはれみ給ふところと喜んでごまかして、有耶無耶《うやむや》のうちに戦争が終つて、私は幸ひブン殴られずに済んだのである。私はブン殴られたら刺し違へて死ぬことなどを空想して、戦争中、こればかりは何とも憂鬱で仕方がなかつた。私は規則には服し得ない人間で、そのために、子供の時から学校が嫌ひで、幼稚園の時からサボッて、道に迷つて大騒ぎをやらかしたりして、中学校まで全通学時間の約半分はひそかに休んでゐるのである。これは掛値のない実話です。私が学校を休んで海岸でねころんでゐると家庭教師(医大の学生)が探しに来て雲を霞と逃げのびると彼も亦旺盛なる闘志をもつて実に執拗に追つかけて共にヘバッたこともあり、親父がキトクで学校へ電話が来た時も休んでゐて、大いに困つたこともある。罪を犯してもさうせずにゐられぬといふことは切ないことだ。私は学校を休んで砂浜の松林の上にねてたゞ空と海を見てゐるだけなのだが、さういふ素朴な切なさは子供の時も大人の今も変るものではない。
私は田舎の中学を放校され、東京の豊山中学といふ全国のヨタ者共の集る中学へ入学した。この中学では三年生ぐらゐになると半分ぐらゐ二十を越してゐて私などは全く子供であり、新聞配達だの、人力車夫だの、縁日で文房具を売る男だの、深夜にチャルメラを吹いて支那ソバを売る男だの、ヒゲを生やした生徒がたくさんゐた。けれども、こゝでも、私ほど学校をさぼる生徒はゐなかつた。私が転校して三日目ぐらゐに、用器画の時間に落書してゐると、何をしてゐるかときくから、落書をしてゐますと答へると、さういふ生徒は外へ出よ、私の時間は再び出席するに及ばないと言ふ。仕方がないからカバンをぶらさげて家へ帰り、それからの一年間は完全にその時間には出なかつた。答案も白紙をだした。私は落第を覚悟してをり、満州へ行つて馬賊にでもならうと考へて、ひそかに旅費の調達などをしてゐたのである。ところが私は及第した。のみならず、二学期は丁だつたのに、三学期の綜合点が甲になつてをり、私は三学期の白紙の答案に百五十点ぐらゐ貰つたことになつてゐた。この先生は五十ぐらゐの痩せて見るからに病弱らしい顔色の悪い先生で、いつも私の空席をチラと見て、又休んだか、と呟いてゐたさうである。私はどうにも切なくて、思ひがけなく及第したが、先生の顔を見る勇気がないので新学期から学校を休んでゐると、友達が来て、用器画の先生は学校をやめたといふことを伝へてくれた。それ以来、私はいくらか学校をサボらぬやうになつたが、それは改心したせゐではなく、その時以来学校中の人気者になつて、ヒゲの生えたオヂサン連だのヨタモノ連に馬鹿親切に厚遇されるやうになつたから、いくらか学校が面白くなつたせゐである。そこで私は陸上競技の御大などに祭りあげられて羽振りをきかしたものだが、何しろこの中学は人力車夫と新聞配達がたくさんゐるから馬鹿にマラソンが強いので、特に団体競技、駅伝競争となると人材がそろつてゐる。けれども車夫といふものは走り方に隠されぬ特徴があつて手の置き場が妙に変つてをり、又、脚のハネ方にもピンと跳ねて押へるやうなどこか変つたところがあつて、見てゐるとハラ/\する。負けた学校からも投書があつたりして、せつかく貰つた優勝旗をとりあげられたことがあつた。私の安住できる学校はこんなものである。
かういふ私にとつては生れつき兵隊ほど嫌ひなものはなかつたが、然し、私は凡そ戦争を呪つてゐなかつた。元々芸術の仕事といふものは、それ自体が戦争に似てゐる。個人の精神内部に於ける戦争の如きもので、エマヌエル・カント先生も純粋理性批判に於てさういふ表現を用ひてゐるが、ともかく芸術の世界は自らの内部に於て常に戦ひ、そして、戦ふ以上に、むしろ殉ずる世界である。私のやうに身の程もかへりみず、トンボか、せいぜい雀ぐらゐの才能しかないくせに、鷲か鷹でなければ翔べない山脈へあがらうといふ。その無理はよその人が見て考へるよりも本人自身が身を切る思ひで知つてをり、朝に絶望し、夕べにのたうち、鷲や鷹につかみ去られて食べられて糞になつたり嘔吐になつたり、そこで又いのちを貰つてコツコツやりだして、麓と二合目ぐらゐのところを翔んでは食べられて糞になり、翔んでは食べられて糞になり、糞の中から生れ代つて同じ所をせつせと登つて突き落されてゐる。
支那で戦争が始つた四年の後に本物の大戦争が始まるまで、私の方は戦争どころではなかつたので、ヨチ/\翔んでは食べられて糞になり、冒頭に述べた通り、支那で戦争の始まつたとき私は京都にゐたのだが、その年の正月の終りごろ、ふと東京で決意して、千枚ほどの原稿紙だけぶらさげて京都へ来たのだが、隠岐和一から伏見稲荷の前に部屋を探してもらつて長篇小説を書きだした。その隠岐が東京へ帰ると知り人はもとより一人もをらず、私はその孤独をいかばかり心強いものに思ひつめてゐたであらうか。私を知る人は京都に一人もゐないのだ。なんといふ温いなつかしい友情であらうか! まもなく私は弁当仕出屋の二階へ引越した。そこでは一日の食費が二十五銭で、酒が一本十二銭で、私は少しも歩かずに食つて酔つ払つて、ねむつて、一ヶ月二十円ぐらゐで生きてゐられるのである。私が満々たる自信をもつて仕事に精根つくしてゐたのは約二ヶ月で、六百枚ほど出来上り、あと百枚か百五十枚で終るところで私の自信は根こそぎ失はれてゐた。自信が失はれるといふことは単に自信が失はれるといふことではないので、絶望するといふことと同じ意味に外ならぬのだ。烏が孔雀の羽をつけるといふが、我々雀は鷹を夢み、烏は孔雀の羽をむしられるだけで話はすむが、鷹を夢みる雀は鷹に食はれて糞になる。そして糞からもとの雀に戻るまで、朝に嘆き、昼に絶望し、夕べに怒り狂ひ、考へることを何よりも怖れ、考へる代りに酒を飲み、酒を飲むと、怒り狂はずにゐられなくなり、自分はおろか人にまで八ツ当り、馬鹿者の中の馬鹿者であつた。原稿用紙に埃がつもり、見まいとしても部屋の中の机の上だもの見ずにゐられるものか、見るたびに一度に心が冷えきつて曠野を飄々風が吹く。私は坂口安吾といふ名前であることを忘れようとした。本当に忘れようとしたのだ。どうしても名前の思ひだせない人間で、どこで生れ、どこから来てどこへ行く人間だか、本人にもしつかと分らない人間で、一ヶ月二十円の生活に魂を売つた人間で、昼頃起きて物を食ひ、夕べに十二銭の酒に酔つ払つてゴロリとねむる酒樽のでき損ひのやうな人間なのだ、と、どうしてそれを信じることが出来ないのだらう。事実それだけの人間ではないか。しかも、どうしてそれを信じることが出来ないのだ。
諸君は京都の街を知つてゐますか。東山北山西山と云ひ、南を残して三方はぐるり山にかこまれてゐます。街は春の季節でも北の山と西の山には雪があるほど高い山で、京都の街から京都の街へ行く為に深い幽谷のやうな峠を越すところもあります。私の窓からは京都の山々がみんな見えます。山を見ると私は泣きだしさうになつて怒ります。ムッシュウ・スガンの山羊といふ話を知つてゐますか。然し、その話とも違ひます。山はいつも綺麗ですよ。人のゐない野原ではなく人間だらけの屋根の上の山の姿は泌《し》みるやうに鮮やかなのです。山を見ると、私はいつもたゞ山だけになつてしまつた。私自身が山になつた。私といふ人間はこんなケチな、センチメンタルな人間で、忽ち山の姿を映すやうな人間で、鷲と鷹しか翔べないやうな大山脈を映すことのできないケチな人間である切なさに、ふるへだしてしまふのでした。すでに芸術の鳥はとび去り、部屋にひとかけの糞のかたまりが落ちてゐました。
一年たつた。私は竹村書房へ速達をだした。あと二ヶ月で小
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング