食べさせてくれて、そのたびに、小田原にもパンがなくなつたとか、バタがなくなつたとか、さういふことを彼によつて発見する。彼さへ来なければ、私は何も発見する必要はない。私には欠乏がなかつた。必要がなかつたからだ。
 さういふ私にも否応なしに欠乏が分つてきた。なぜなら、酒がなくなつたのだ。次にマッチがなくなり、煙草がなくなつた。
 けれども小田原ではさして困らなかつた。ガランドウといふ奇怪な人物がゐるからで、そこへ行くと、酒もタバコも必ずなんとかしてくれる。この人物は牧野信一の幼な友達で、ペンキ屋で、熱海から横浜に至る東海道を股にかけて看板をかいて歩いてをり、ペンキ道具一式と酒とビールをぶらさげて仕事に行つて先づビールを冷やしてから仕事にかゝる男なので、箱根へ仕事に行けばわざ/\谷底へ降りて谷川へビールを冷やしてから仕事にかゝり、お昼になると谷底の岩の上でビールを飲んで飯を食つてゐるから、注意して東海道を歩くとよくこの男の姿を見かける。風流な男なのである。
 然し私は風流ではない。私は谷底へ降りてビールを飲むことなどは金輪際やらず、彼は谷底へ降りるばかりでなく、箱根の山のテッペンでビールを飲もうよと云つて私をしつこく誘ふけれども私はいつかなウンとは言はないので、私は今ゐる場所を一歩も動かず酒を飲む主義で、風流を解する精神は微塵といへどもない。ともかくかういふ人物だから、こと酒に関してはまことにたのもしい男であり、三時間辛棒する覚悟さへあれば、小田原全市に酒がなくとも隣りの村から酒を持つてきてくれた。必ず持つてきた。然し、一升たのんでも、五合しかなかつたといふやうなことが、さすがのこの男でも次第にさうなつてきたのであつた。
 そのうち、私が上京して留守のうちに早川が洪水で家は泥水にうづまり、そのまゝ私は東京に住まざるを得なくなつてしまつたのである。
 太平洋戦争が始まつたのはこの年の冬だ。寒くなつたのでガランドウの所へあづけてきたドテラをとりに小田原へ行き、翌朝目をさまして戦争が始まつてゐた顛末はすでに述べた通りであるが、私の魂は曠野であり、風は吹き荒れ、日は常に落ちて闇は深く、このやうな私にとつて、戦争が何物であらうか。戦争は私自体の姿であり、その外の何物でもなかつたのだ。
 私は然し私自身死を覚悟した十二月八日を思ひだす。私は常に気が早い。その日私は日本の滅亡を信じ、私自身の滅亡を確信した。小田原の街々は変りはなかつた。人通りはすくなく、たゞ電柱に新聞社のビラがはられて、日本宣戦す、ハタ/\と風にゆれ、晴天であつた。私が床屋から帰つてくると、ガランドウも仕事先の箱根から帰つてきて、偶然店先でぶつかり、愈々二宮へマグロをとりにでかけたわけだが、ガランドウばかりは戦争のセの字も言はなかつたやうだ。どこ吹く風、まつたくさういふ男で、五尺八寸五分ぐらゐ、大男の私が見上げるやうな大男で、感動を表すといふ習慣が全然ない、怒ることもなく、笑ふことだけはある。二宮駅の手前でバスを降りて、先づ禅寺へはいつて行つていやにサボテンだらけのお寺で、ガランドウは庫裡《くり》の戸をあけて、酒はないかね、大きな声でたづねてゐる。目当の家に酒がなくとも決して落胆したりショゲたりはしない男で、いつも平気の平然で、一軒目がダメなら二軒目、二軒目がダメなら三軒目、さういふ真理をちやんと心得てゐるのであらう。それから鉄道の工事場へ行き、こゝではお寺の墓地が線路になるので、何十人の人間が先祖代々の墓地を掘りかへしてをり、線香の煙がゆれてゐる。ガランドウはこゝの掘り起した土をさぐつて土器を探し、破片をあつめると壺になる。彼は素人考古学者でガランドウ・コレクションといふものを秘蔵してゐる。それから魚屋へ行つたので、もう夕方になつてゐた。魚屋には自家用の焼酎があり、ガランドウはそれを無心して、我々はしたゝか酩酊に及んだのである。
 要するに、どう思ひ返してみても、十二月八日といふ日に戦争に就て戦争のセの字も会話してをらぬので、相手が悪い、私はつまりガランドウの二階で目をさます、もうガランドウは出掛けてゐる、オカミサンが来て、なんだか戦争が始つたなんて云つてゐるよ、と言つたが、私は気にもとめず午《ひる》まで本を読んでゐて、正午五分前外へでゝ戦争のビラにぶつかり、床屋をでてガランドウに会つて二宮へ来てマグロを食ひ焼酎をのみ酔つ払つて別れて帰つてきたゞけであつた。小田原でも二宮でも、我々の行く先々で、特別戦争がどうかうといふ挨拶をのべたところは一軒もなかつた。日本人は雨が降つても火事でも地震でもなんでも時候見舞の挨拶の口上にするのであるが、戦争だけは相手のケタが違ふので時候見舞の口上にははまらなかつたのかな。思ふに日本人といふ日本人が薄ボンヤリと死ぬ覚悟、亡びる覚悟を感じたのでないだらうか。元々田舎の町は人通りがすくないのかも知れぬが、妙に人通りのない、お天気のよい道だけを忘れない。人の姿がむれてゐたのは墓地の工事場と、魚屋の店内で、ちやうど夕方で、オカミさん達が入れ代り立ち代り買ひに来て、異様な人物が二人店先でマグロを食つて焼酎をのんでゐるから、驚いて顔をそむけてゐる。
 だが、心には何物かゞあつたであらう。長い戦争の年内を通観して、やつぱりこの日は最も忘れ得ぬ日であり、なつかしい日だ。八月十五日に終戦の詔勅をきゝながら思ひだしたのは言ふまでもなくこの日のことで、時刻も其の正午、生きて戦争を終らうとは考へてゐなかつた。とはいへ、無い酒をむりやり探して飲んだくれ、誰よりもダラシなく戦争の年内を暮した私であつた。そして戦争はまだだらしなく私の胸の中にだけ吹き荒れてゐるのである。



底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
   1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「文化展望 第二巻第七号」三帆書房
   1947(昭和22)年1月1日発行
初出:「文化展望 第二巻第七号」三帆書房
   1947(昭和22)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2006年12月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング