、六百枚ほど出来上り、あと百枚か百五十枚で終るところで私の自信は根こそぎ失はれてゐた。自信が失はれるといふことは単に自信が失はれるといふことではないので、絶望するといふことと同じ意味に外ならぬのだ。烏が孔雀の羽をつけるといふが、我々雀は鷹を夢み、烏は孔雀の羽をむしられるだけで話はすむが、鷹を夢みる雀は鷹に食はれて糞になる。そして糞からもとの雀に戻るまで、朝に嘆き、昼に絶望し、夕べに怒り狂ひ、考へることを何よりも怖れ、考へる代りに酒を飲み、酒を飲むと、怒り狂はずにゐられなくなり、自分はおろか人にまで八ツ当り、馬鹿者の中の馬鹿者であつた。原稿用紙に埃がつもり、見まいとしても部屋の中の机の上だもの見ずにゐられるものか、見るたびに一度に心が冷えきつて曠野を飄々風が吹く。私は坂口安吾といふ名前であることを忘れようとした。本当に忘れようとしたのだ。どうしても名前の思ひだせない人間で、どこで生れ、どこから来てどこへ行く人間だか、本人にもしつかと分らない人間で、一ヶ月二十円の生活に魂を売つた人間で、昼頃起きて物を食ひ、夕べに十二銭の酒に酔つ払つてゴロリとねむる酒樽のでき損ひのやうな人間なのだ、と、どう
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