そかに休んでゐるのである。これは掛値のない実話です。私が学校を休んで海岸でねころんでゐると家庭教師(医大の学生)が探しに来て雲を霞と逃げのびると彼も亦旺盛なる闘志をもつて実に執拗に追つかけて共にヘバッたこともあり、親父がキトクで学校へ電話が来た時も休んでゐて、大いに困つたこともある。罪を犯してもさうせずにゐられぬといふことは切ないことだ。私は学校を休んで砂浜の松林の上にねてたゞ空と海を見てゐるだけなのだが、さういふ素朴な切なさは子供の時も大人の今も変るものではない。
私は田舎の中学を放校され、東京の豊山中学といふ全国のヨタ者共の集る中学へ入学した。この中学では三年生ぐらゐになると半分ぐらゐ二十を越してゐて私などは全く子供であり、新聞配達だの、人力車夫だの、縁日で文房具を売る男だの、深夜にチャルメラを吹いて支那ソバを売る男だの、ヒゲを生やした生徒がたくさんゐた。けれども、こゝでも、私ほど学校をさぼる生徒はゐなかつた。私が転校して三日目ぐらゐに、用器画の時間に落書してゐると、何をしてゐるかときくから、落書をしてゐますと答へると、さういふ生徒は外へ出よ、私の時間は再び出席するに及ばないと言ふ。仕方がないからカバンをぶらさげて家へ帰り、それからの一年間は完全にその時間には出なかつた。答案も白紙をだした。私は落第を覚悟してをり、満州へ行つて馬賊にでもならうと考へて、ひそかに旅費の調達などをしてゐたのである。ところが私は及第した。のみならず、二学期は丁だつたのに、三学期の綜合点が甲になつてをり、私は三学期の白紙の答案に百五十点ぐらゐ貰つたことになつてゐた。この先生は五十ぐらゐの痩せて見るからに病弱らしい顔色の悪い先生で、いつも私の空席をチラと見て、又休んだか、と呟いてゐたさうである。私はどうにも切なくて、思ひがけなく及第したが、先生の顔を見る勇気がないので新学期から学校を休んでゐると、友達が来て、用器画の先生は学校をやめたといふことを伝へてくれた。それ以来、私はいくらか学校をサボらぬやうになつたが、それは改心したせゐではなく、その時以来学校中の人気者になつて、ヒゲの生えたオヂサン連だのヨタモノ連に馬鹿親切に厚遇されるやうになつたから、いくらか学校が面白くなつたせゐである。そこで私は陸上競技の御大などに祭りあげられて羽振りをきかしたものだが、何しろこの中学は人力車夫と新聞配達が
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