私が子供の屍体をひきあげると、すぐ、戻りませうよ、と言つた。そして二人が小舟へ戻ると、困つたことに、私が舟へ立てかけておいた大事のステッキがなくなつてゐる。飛びこんだハズミに落ちて流れたのだ。この籐のステッキは無一物の私がたつた一つの財産に大事にしてゐたもので、それはステッキを愛用した人でないと分らないが、身体の一部の愛着がわくもので、私の嘆きは甚大だつた。幸ひ小舟にはモーターがついてをり、まだガソリンがあつたので二三|哩《マイル》下流まで追つかけてみたが見当らなかつた。もう水面はたそがれて暗くなつてゐる。たそがれの水面を低く這ふやうに走るといふことはいゝ気持のものではないが、例の屍体の沈んだところを通ると、もう岸に人影はなく、たつた三隻の小舟だけがもうあたりもしかとは見えない暗い水面に竿を突つこんで屍体を探してゐる。水からの蒸気がそれをかすかに包んでをり、オーイ、もう一度もぐつてくれないかオーイ、オーイ、と呼んでゐる。冗談ではない。真昼の太陽の下でも、もぐるのが怖しくなつてしまつたのだ。
その日から私は小さな町の英雄になり、伊勢甚の子供が私のステッキのことを誇大に言ひふらして私がわが子供の如くに愛してゐたこと(それは本当だが)を吹聴するから、町の有志が心配して利根川の下流へステッキ捜索の立札をたてゝくれた始末であつた。
わが魂をさがしあぐね、ひねもす机の紙を睨んで、空々漠々、虚しく捉へがたい心の影を追ひちらしてゐる私にとつて、人の屍体をひきあげて人気者になり、残つた屍体をひきあげかねて逃げだしてきた馬鹿らしさ、なさけなさ。私はあの小さな田舎町を思ひだすことが実際苦痛だ。私はあの町を立去つて以来、再び訪れたこともなく、思ひだすことも悲しい。虚しさとは、そして、その虚しさの愚かさのシムボル自体があの英雄で、この町に何とか稔といふ私よりも年長の文学青年がゐて、私の例の屍体引揚げ作業を見てゐて葉書をよこして遊びにくるといふから、私は胸のつぶれる苦しさ憎さで、あなたはイソップ物語を知つてゐますか、子供が石を投げて遊んでゐますが池の中の蛙には命の問題です、と返事を書いた。ある日トンパチ屋で会ふと向うから話しかけて文学の話を始めたから、バカヤロー、私は怒鳴つて帰つてきた。私はほんとに我がまゝだ。彼はちつとも悪くはない。たゞ私は、私自身が考へる苦しさのために、考へる代りに酒を
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