てゐるのだ。私が中学一年の時、そのころ高師の生徒で佐渡出身の斎藤兼吉といふ人がオリムピックに出場して、片抜手で自由型を泳いで、カワナモクのクロールに惨敗して、クロールを習ひ覚えて帰つてきた。この人を例年のコーチにしてゐた新潟中学ではその年すでに日本で最初のクロールを覚えたわけで、私はつまりカワナモク型の最も古風素朴なクロールを身につけたわけである。然し私はそれよりも潜水の名手なので、少年時代は五〇米プールを悠々ともぐつたものである。尤もあるとき腕にまかせて海の底へもぐりこみ、突然グァンと水圧で耳をやられ、幸ひ鼓膜は破れなかつたが、危く気を失ふところで死にかけたことがあつた。
 かういふ私であるから取手唯一の河童漁師などがヘッピリ腰でもぐつてゐるのはをかしくて仕方がない。私はオッチョコチョイだから、ざんぶと飛びこみ、川の底をもぐり廻つて、忽ち死体をつかみあげた。かういふと話は簡単だが、事実話は簡単なのだが、私の心にだけはさうでないことが起つたのである。みなさんは先づ川の底といふものが海の底のやうに透明でなく、土の煙りが濛々と立ち上り半米ぐらいしか視界がきかない暗さであることを知る必要がある。その半米の視界も土の煙りが濛々とうづまいて極めてかすかな明るさでしかないのである。突然私の目の前へニュウと腕が突きでゝきた。それは川底の流れにユラ/\ゆれ、私の鼻の先へ私をまねいてゐるやうにユラ/\と延びてきたのである。川底の暗さのために、腕だけしか見えなかつたのは、まだしも私の幸せであつたらう。それは子供の片腕だつた。私はそれを掴んで浮き上つたのだが、水の中の子供の身体などは殆ど重量の手応へがないもので、ゴボウを抜くといふその手応へを私は知らないが、あんまり軽くヒョイと上つてきたのでびつくりした程だつた。私が首をだす。つづいて死体の腕をグイとひきあげると、アヽ、といふ何百人の溜息が一度に水面を渡つてきた。だが私は、再び水底へもぐる勇気はなかつた。私の最初にひきあげたのが親父の方であればまだ良かつたかも知れぬ。なぜなら子供の死体の方はそれほどの凄味も想像されぬからで、親父の死体が今もなほ渦まく濛気の厚い流れの底にあり、今度はユラ/\した手でなしに、その顔がニューと私の目の前へ突きでてくる時のことを想像すると、とても再びもぐる勇気がなかつた。
 伊勢甚の息子はひどくカンのいゝ青年で、
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