を忘れかねて夜もねむれぬ身となつた。悶々の情をはらさうと一夜散歩にでかけると、松風の中に簫《しよう》の音をきいた。音を辿つて簫を吹く女を知り、心みだれて一夜の契りを結んだ。その女を忘れかねる身となつたが、再び女に会ふてがかりがないのである。ある日皇后に会ふと、そのさがしてゐる女の面影に似かよつてゐることに、ふと気がつく……やがて物語は氏忠と皇后の恋になり、後再生した華陽公主の嫉妬を受けるといふところで、途中に切れてゐるのですが、こんな激しい恋物語を述べながら、恋愛を仇心とみ、頻りに道徳的な批難を怖れて言ひ訳を述べてゐたりして、文学としては調子の低いものなのです。作中人物も亦、恋すれば泣き、別れては泣き、嫉妬しては泣き、嫉妬の言ひ訳をしながらも泣き、むやみやたらに泣きすぎて却つてがさつですらあるほどであります。
 ところでこの原本は、後光厳院の宸翰《しんかん》として今日伝へられてゐるものが、最も古い写本だとのことなのです。後光厳院と申せば北朝の天子ですが、殺伐な時代の、決して御満足であらせられたとは思はれない日々、手写するほどもこのやうな物語を愛された高貴な人の手を思ひ、人のいのちに宿る
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