私の視線は彼の視線を追ふて、私のお友達の伊太利の大使を見出しました。ですから私はすぐさま彼等のところへ歩みよりました。
――メヂシ侯爵ではございませんか。マルセル・プルウストを御紹介申します。
プルウストの顔は明るくなりました。
――私はまた、あなたが夫人を誤解してゐらつしやる、でなければ、夫人を誰か他の人と間違へてゐらつしやる、と思つたのです。……私はあなたとお近づきになれて、とても嬉しいんです。私はとても伊太利が好きでしてね。ことにフローレンスにはあこがれてゐるのですが――未だに行つてみたことはないのです……
私達は自分の卓へ戻りました。
――夫人。私はまつたく馬鹿でしたよ。前もつて一度御相談して、それから、喧嘩なら喧嘩をすべきでしたね。こんな馬鹿な振舞ひをあなたは許して下さるでせうか。ああ。私は実に不幸者だ!」
菱山君。察するに、プルウストの御婦人とのお近づきぶりは、君にちよつと勇み肌をつけたすと、ほぼ同じ恰好になるらしいですね。これは冗談。失礼。
僕はプルウストの発想法や、現実の切り取り方や、それを小説へ構成する仕方、さういふものを考へてみたことはなかつたのですが、時にひどく僕の身に近いものに思はれたり、又時にこの人だけはてんで想像もできにくいほど独特な、かけ離れたところにゐる人に思はれたり、することはあつたのです。
僕はちかごろ、論証的に物事を辿ることが、なぜか不本意でたまらないものですから、もつと低い日常生活の形体の上から、とりとめもなく話をひきだしてくることにしませう。
小説を理解するには作者の人となりを先づ理解してかからねばならない――もしさういふ説があるとしたら、これはすこし可笑しいやうですね。なぜつて、小説は理解されて然るべきものであるよりも、作者としては愛読がまづ望ましいことなのですし、僕の場合にしてからが、僕の小説を理解してもらうために、僕の伝記や性質調査書のやうなものを別に書き残す必要があるとは考へることができにくいからです。
作品の鑑賞に先立つて作者に就いての理解が必要な作品を、僕は書きたいと思ひません。紫式部に就いて、その詳細な伝記が新らたに発見せられたところで、源氏物語の芸術価値が高まらうとは思はれませんし、あるひはまた、あの物語が、竹取物語や浜松中納言物語などのやうに作者不明であつたにしても、その価値が減じやうとは思はれません。
尤も、僕達は文学の商売人ですから、先人の残した傑作の単なる読者で終ることができないのは、申すまでもないことです。作者の伝記や性格を調べて、発想法や構成法を知り、自分の役に立てることが必要なのは、ここに改めて断はることが野暮なのですが、公開の文章ですから、我慢して下さい。
作家自身にしてからが、作品を書き終つてのち、作品の中に自己を見出すといふ芸術家的性格が、いつの世にも必要な条件ではなかつたのですか。
プルウストのあのうねうねと波のやうな文章も、そつくりプルウストの語られた言葉と同じことださうですね。オマーヂュの文集中で、コクトオだか誰だつたか、さう書いてゐたやうでした。尤も、誰だつて、さうですけどね。語る調子を外れて、文章の書ける人はないでせう。
シェイケビッチ夫人は、プルウストに会ふたびに、まづスワンのその後の動勢をききたがる習慣だつたさうですし、プルウストはプルウストで、合ひの手に頻りとその日の夫人の化粧や帽子や衣服にお世辞の百万辺を言ひたてながら、夢みるやうにスワンのその後の構想を語つてきかせたものださうです。バルザックもドストエフスキーも、同じやうな条件や時間をもつてゐたやうですね。
勿論、そのやうな条件や時間をもつてゐたからつて、そのことがより傑れた芸術を生みださせる条件になる筈はありません。それほど奇天烈なことは、流石に僕も言ひませんから、御安心下さい。だいたい僕は、何か本質にふれるやうな、さういふ大がかりなことを言ふつもりで君に話しかけてゐるのではなく、かげろふの如く軽いことを、軽い気持で言ふつもりであつたことは、先ほども申上げてゐる通りです。
狂言に、まづ大名が名のりでまして、新座者を抱へたう存ずる、といふので、太郎冠者に申しつけ、街道へ参つて何者ぞよささうな者が通つたら抱へて参れといふ型のきまつたものがいくつかあります。太郎冠者が待つほどに東国方の旅の者が通りかかつて、毎々次のやうに独白します。「罷出《まかりい》でたる者は、東国方の者でござる。この度思ひ立ち、都へ上り、ここかしこをも見物致し、又よささうな所があらば、奉公をも致さうと存ずる。まづ、そろそろと参らう。皆人の仰せらるるは、若い時に旅をせねば、老いて物語が無いと仰せらるるにより、俄に思ひ立つてござる」このあとはいつも話がきまつてゐて、大名にお目見得致しま
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