かげろふ談義
――菱山修三へ――
坂口安吾

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)始《そ》めける

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)半生|寝家《ねや》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)夜半来[#(テ)]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)やるまいぞ/\
−−

 二ヶ月ばかりお目にかかりませんが、御元気のことは、時々人づてにきいてゐました。さて、僕は今日、人々は笑ふばかりで、とりあつてくれさうもないことに就いてお喋りしたくなりましたので、君にあてて話しかける必要にせまられました。
 東路の道のはてよりも、なほ奥つかたに生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始《そ》めけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、徒然なるひるま、よひゐなどに、姉継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでか覚え語らむ。いみじく心もとなきままに、等身の薬師仏を作りて、手洗ひなどして、ひとまに密《ひそか》に入りつつ、京に疾くのぼせ給ひて、物語の多く侍ふなる、あるかぎり見せ給へと、身を捨てて額《ぬか》をつきいのり申すほどに、十三になる年のぼらむとて、九月三日門出して――
 このやうな少女達は、いつも君の友達でしたね。さういへば、この雑誌に、君がたうとうプルウストを書きだしたのを読みました。たうとう……思へば十年このかた、君と会へば、プルウストのでないことはなかつたのだから。「失はれし時をもとめて」をどうして書く気になつたのだらう……君がそこから語りはじめてゐるのを、僕は自分の思ひのやうな親しさで読み、やがて自分の思ひの中へ落ちてゐました。
 マリイ・シェイケビッチ夫人のプルウストに就いてのクロッキによりますと、病弱の彼も然し却々《なかなか》の勇み肌で、あるとき夫人をさらふやうにしてシロといふ料理店へ連れ込みました。以下、夫人の筆をかりませう。
「ある冬の朝。大戦中のことです。プルウストは立ち現れると言ひはじめました。
 ――今夜はあなたを浚《さら》つてゆきますよ。おいやなら仕方がありませんけど。シロへ行くんです。あすこの料理はとてもしつかりしてゐると聞いたものですから。あなたはいつも夜会に私を招待して下さるから、今夜は私も御礼に……ありがたい。風をひくといけませんよ。私のカラーなんか見ちやいけませんね。どこか間違つた服装をしてゐれば、それはもうセレストの奴がした業に違ひないんです。あいつときたら、きまつて私に恥をかかせようとするんだから。あ。いいえ、タキシはお呼びにならなくともよろしいんです。ちやんと私のが下に待つてる筈なんですから。足の冷めたさは御心配なさらなくともいいんですよ。車の中にちやんと毛皮を用意しておきましたから。……いや、まつたく。こんな妙な服装をした男と外出なさるのは、あなたの恥かも知れないな……
 私達は真暗な人通りない巴里を走つて、またたくうちにシロへつきました。
 ――君。と、プルウストは支配人に言ふのです。夫人のために一番いい席をこしらへて下さいませんか。出来のいいシャンパンをすぐ冷やして……いえ、いえ、ぜひこいつを飲んで頂かなきや。今晩は私を悦ばすためにぜひこれを飲んで頂きたいんです……それから白葡萄酒にヒラメの鰭肉を落して。それから(プルウストの招待客はしよつちう同じ献立を食はされるのです。彼の健康に順《したが》つて多少の変化はありますが、客人の健康に順つて変化された例はありません)え。私の食べもの? 私は何もいらない。あ。さうだ。水を飲まう。それから、珈琲も飲まうかな。もし許して頂けるなら、珈琲を何杯も何杯も飲みたいな。
 そこで私達は席につきました。
 ――お願ひですから、袖口にセーターがのぞいて見えても、お気にとめないで下さいよ。みんなセレストの奴が行きとどかないせゐなんです。
 暫くして、突然彼は立上つて、支配人のところへ出掛けて行きました。すつかり声まで改まつてゐるのです。彼は自分の名刺を差出しました。
 ――君済まないがこの名刺を夫人の背後に陣どつてゐる紳士諸君に渡して頂きたい。あいつ等は断じて我々と同席するにふさわしくない。どうも、我慢するわけにいかん。無礼きはまる。
 私は立上らずにゐられませんでした。
 ――いつたい、どなたのことを言つてるんです。マルセル。
 ――あすこにゐる外国人の奴等め、あなたが誰方か知らないんです。あいつら、あなたの悪口を言つてるんです。私と同席してゐるといふので。
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング