るい。見ると茶の間の一隅に蓄音機があるから、
「これはよい物がありました。ワタクシ蓄音機を膝元へよせまして、これをかけながら読経いたしましょう。ジャズのようなうるさいレコードをかけますれば不調法も隣りまではひびきますまい。お経の声も消されるかも知れませんが、気は心と申しますからホトケは了解して下さると思います」
「隣室では皆さん心静かに茶道を学んでいらッしゃるのですよ。唐紙を距ててジャズをジャンジャン鳴らされてたまるものですか。まア、まア、なんという心ない坊さんでしょうね」
 ソメ子は眉をつりあげて怒ってしまった。そのとき幸いにも居合せた唐七が、
「せっかくおいで下さったのだから、それではこうしましょう。奥の私の居間へホトケの位牌や遺骨を運びまして、そこで存分に冥福を祈っていただきましょう。さア、おいで下さい」
 お奈良さまを自分の居間へ案内して、遺骨や位牌を運んだ。
「本日はホトケのためのお志、まことにありがたく存じます。ホトケの最後の言葉が、近々あの世へ参りますからお奈良さまにお経もオナラもあげていただきますよ、というのだから、本日はさだめしホトケも喜んでいることでしょう。ここはずッと離れておりますから、どうぞ心おきなく」
「そうおッしゃッていただくと、ありがたいやら面目ないやら。あなた様にはいつも厚いお言葉をかけていただきまして、まことにありがたく身にしみておりまする。ブウ。ブウ。ブウ。これは甚だ不調法を」
「イヤ。お心おきなく。ホトケがよろこんでおります。私もちょッと、ブウ。ブウ。ブウ」
「オヤ。ただいまのは私でしたでしょうか。まことに、ハヤ」
「ただいまのは私です。私もいくぶんのオナラのケがありましてな。また、ブウ。ブウ。ブウ。これも私」
「これはお見それいたしました」
「実は今回のことについては私にも原因があるのです。お奈良さまほどではありませんが、私もかねてオナラのケがあるところから、人前ではやりませんが、家では気兼ねなくやっておりました。これが家内の気に入らなかったのですな。お奈良さまの場合はこれは別格ですが、私どものオナラは人がいやがるような時にとかく催しやすいもので、食事中なぞは特に催すことが多い。長年家内は眉をひそめておりましたが、私といたしましてもわが家でだけは気兼ねなくオナラぐらいはさせてほしいということを主張して先日まではそれで通してきました。ところが隠居の葬式以来お奈良さま同様に私もオナラの差し止めをくいまして、自分の部屋に自分一人でいる時のほかにはわが家といえどもオナラをしてはならぬというきびしい宣告をうけたのです。実は家内はこの宣告をしたいのがかねての望みでして、時機を見ているうちにお奈良さまの事件が起った。そこでお奈良さまを口実にして実は私のオナラを差し止めるのが何よりのネライだったのです」
「そう云っていただくと涙がでるほどうれしくはございますが、万事は拙僧の不徳の致すところで」
「あなたは家内の本性を御存知ないからまだお分りにはなりますまいが、夫婦の関係というものは強いようで脆いものですな。たかがオナラぐらいと思っていると大マチガイで、家内がオナラを憎むのはオナラでなくて実は私だということに気づかなかったのです。夫婦の真の愛情というものは言葉で表現できないもので、目で見合う、心と心が一瞬に通じあい、とけあう。それと同じように、手でぶちあったり、たがいにオナラをもらして笑いあったりする。オナラなぞは打ちあう手と同じように本当は夫婦の愛情の道具なんです。オナラをもらしあってこそ本当の夫婦だ。ところがウチの家内は私の前でオナラをもらしたことがない。実にこれは怖しい女です。私はその怖しさを知ることがおそすぎまして、これはつまり家内が慎しみ深い女で高い教養があるからと考えたからで、おろかにもオナラをしたことのない家内を誇りに思うような気持でおったのです。はからずも今回オナラの差し止めを食うに至ってにわかに悟ったのですが、亭主のオナラを憎むとは亭主を憎むことなんですよ。夫婦の愛情というものは、人前でやれないことを夫婦だけで味わう世界で、肉体の関係なぞは生理的な要求にもとづくもので愛情の表現としては本能的なもの、下のものですが、オナラを交してニッコリするなぞというのはこれは愛情の表現としては高級の方です。他人同士の交遊として香をたいて楽しむ世界なぞよりも夫婦がオナラを交して心をあたためる世界が高級で奥深い。なんとも言いがたいほど奥深く静かなイタワリと愛惜です。実に無限の愛惜です。盲人が妻や良人の心の奥を手でさぐりあうような静かな無限の愛惜です。夫婦のオナラとはこういうものです。オナラを愛し合わない夫婦は本当の夫妻ではないのです。要するに妻は私を愛したことがなかったのですよ」
 唐七は暗然としてうつむい
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