た。まことに悲痛な様ではあるが、お奈良さまは彼の説く妙諦がまだ充分には味得できなかった。なぜならお奈良さまの一生はあまりにもオナラに恥の多い一生で、唐七のように逞しくオナラを美化する考え方には馴れがたかったからである。
 なるほどお奈良さまのお寺ではその女房も花子も遠慮がちではあるがオナラをもらしあっている。そう悪いものではないが、さまで賞味するほどのことではないような気分だ。奥深いと云えば女がそッともらすオナラそのものがなんとなく奥深いフゼイであるが、無限の愛惜をこめて女房のオナラを心にだきしめた覚えもない。
 お奈良さまが何よりもその悲痛さに同感したのは、唐七が女房子供にオナラの差し止めをくったということだ。お奈良さまもソメ子にトドメを刺されたけれども、自分の女房子供にオナラの差し止めをくってはおらぬ。自分が差し止めをくったらどうであろうかと考えると胸がつぶれる思いだ。なんという気の毒な人よ。春山唐七。その人こそは悲劇中の悲劇的な人だ。お奈良さまは思わずすすりあげて、
「なんとも、おいたわしい。年がいもなく涙を催しまして、ブウ、ブウ、ブウ、まことに不調法。拙僧なぞはシアワセでございますな。ところきらわず不調法をして歩きまして、身のシアワセ、また身の拙なさがよく分りました」
 お奈良さまは涙をふいて、ホトケに読経して寺へ戻った。

          ★

 その晩からお奈良さまは深刻に考えたのである。自宅においてすらもオナラの差し止めをくっている人物がいるというのに、ところきらわずオナラをたれるワガママは許しがたいと心に深く思うところがあったからである。彼は女房をよびよせて、
「実はな。これこれで唐七どのがオナラを差し止められたときいて私ももらい泣きをしてきました。そこでつくづく考えたのは自宅でオナラもできない人がいるというのに、お通夜の席でオナラを発するワガママは我ながら我慢ができない。糸子さんが怒るのはもっともだ。僧侶という厳粛な身でありながら泣きの涙の遺族の前でオナラをたれて羞じないようではケダモノに劣ると云われたが、十三の少女の言葉ながらも正しいことが身にしみて分ったのだ。さて、そこで、なんとしても人前ではオナラをもらさぬようにしたいが、食べ物の選び方でどうにかならぬかな」
「私と結婚した晩もそんなことをおッしゃいましたが、ダメだったではありませんか。オナラは食べ物のせいではありませんよ。もともと風の音ですから空気を吸ってるだけでもオナラが出ましょうし、その方が出がよいかも知れませんよ。あきらめた方がよろしいでしょう。皆さんも理解しておいでですから」
「イヤ、その理解がつらい。その理解に甘えてはケダモノにも劣るということが身にしみたのだ。とにかく、つとめてみることにしよう」
 その翌日から幾分ずつ節食して一歩外へでると万人を敵に見立てて寸時もオナラの油断を怠らぬように努力した。腹がキリキリ痛んでくる。口からオナラが出そうになる。アブラ汗が額ににじむ。足が宙に浮く。たまりかねると、人も犬もいないような路地にかくれて存分にもらす。結局もらすのだから変りがないようなものではあるが、日ましに顔色がすぐれなくなり、やせてきて、本当に食慾がなくなってきた。なんとなく力がぬけて、生アクビがでてしょうがない。するとオナラも一しょにでてそれは昔と変り目が見えないのに、皮がたるんで痩せが目立つようになった。女房が心配して、
「どうかなさったのですか。めっきり元気がありませんね」
「別にどうということもないが、外出先で例のオナラの方に気を配っているのでな」
「それは気がつきませんでした。そんな無理をなさってはいけませんよ」
「イヤ。無理をしているわけではない。結局はもらしているから昔に変りはないはずだが」
「イエ。気をつめていらッしゃるのがいけないのです。それに五分でも十分でもオナラを我慢するというのは大毒ですよ。今日からはもう我慢はよして下さい」
「それがな、どういうものか、ちかごろでは習慣になって、オナラが一定の量にたまるまで自然にでないようになった。自宅にいてもそうだ。ノドまでつまってきたころになって、苦しまぎれにグッと呑み下すようにすると、にわかに通じがついたようにオナラがでてくるアンバイになった。もうすこしで目がまわって倒れるような時になって通じがつく」
「こまりましたねえ。お医者さまに見ていただいたら」
「とても医薬では治るまい。これも一生ところきらわずオナラをたれた罰だな。私のオナラはこれでよいが、お前のオナラをきかせてみてくれ」
「なぜですか」
「唐七どのが言ったのでな。夫婦の交しあうオナラは香をきくよりも奥深い夫婦の愛惜がこもっているということだ」
「そうですねえ。奥深いかどうかは知りませんが。私はあなたのオナラをきく
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