がしただけで、刺す力が一時に凍ったように失われていた。あの女の腹の前で出刃庖丁をふりかざしたまま私は化石してしまったのだ。その時の私の恰好が小鬼の姿にそっくりだったと憎らしげに人に語る母であったが、私に言わせれば、ふりかざした出刃庖丁の前に突ったった母の姿は、様々な絵本の中でいちばん厭な妖婆の姿にまぎれもない妖怪じみたものであったと、時々思い出して悪感[#「感」に「ママ」の注記]がしたよ。三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだっぴろい誰もいない部屋のまんなかに私がいる。母の恐ろしい気配が襖の向う側に煙のようにむれているのが感じられて、私は石になったあげく気が狂《ふ》れそうな恐怖の中にいる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきずり、窖のような物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真っ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたろうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。
あれほど残酷に私一人をいじめぬくためには、よほど重大な原因があったのだろう。私の生れた時は難産
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