る。さうなりたいのは女の本心であつた。いくらかの土地を買つて田舎へ住みませうよ。頻りに女はさう言ふのだ。
 さういふ女だから私が不満なわけではない。元々私が女を「所有」したことがいけないので、私は女の愛情がうるさくて仕方がなかつた。
「ほかに男をつくらないか。そしてその人と正式に結婚してくれないかね」
 と私は言ふが、女がとりあはないのにも理由があり、私は甚だ嫉妬深く、嫉妬といふより負け嫌ひなのだ。女が他の男に好意をもつことに本能的に怒りを感じた。そんな怒りは三日もたてば忘れ果て、女の顔も忘れてしまふ私なのだが、現在に処して私の怒りの本能はエネルギッシュで、あくどい。女が私の言葉を信用せず、私の愛情を盲信するにも一応自然な理由があつた。
 私が深夜一時頃、時々酒を飲みに行く十銭スタンドがあつた。屋台のやうな構へになつてゐるので二時三時頃まで営業してもめつたに巡査も怒らない仕組で、一時頃酒が飲みたくなる私には都合の良い店であつた。三十ぐらゐの女がやつてをり、客が引き上げると戸板のやうなものを椅子の上へ敷いてその上へねむるのださうで、非常に多淫な女で、酔つ払ふと客をとめる。けれども百万の人にもましてうすぎたない不美人で、私も時々泊れと誘はれたが泊る気持にはとてもならない。土間に寝るのが厭なんでせう、私があなたの所へ泊りに行くからアパートを教へて、と言ふが、私はアパートも教へなかつた。
 この女には亭主があつた。兵隊上りで、張作霖《ちょうさくりん》の爆死事件に鉄路に爆弾を仕掛けたといふ工兵隊の一人で、その後の当分は外出どめのカンヅメ生活がたのしかつた、とそんな話を私にきかせてくれた。無頼の徒で、どこかのアパートにゐるのだが、女は亭主を軽蔑しきつてをり、客の中から泊る勇士がない時だけ亭主を泊めてやる。亭主は毎晩見廻りに来て泊る客がある時は帰つて行き、ヤキモチは焼かない代りに三四杯の酒と小づかひをせびつて行く。この男が亭主だといふことは私以外の客は知らない。私は女に誘はれても泊らないので亭主は私に好意を寄せて打ち開けて話し、女も私には隠さず、あのバカ(女は男をさうよんだ)ヤキモチも焼かない代りに食ひついてエモリみたいに離れないのよ、と言つた。私と男二人だけで外に客のない時は、今晩泊めろ、泊めてやらない、ネチ/\やりだし、男が暴力的になると女が一さう暴力的にバカヤロー行つてくれ、水をひつかける、と言ひも終らず皿一杯の水をひつかけ、このヤロー、男がいきなり女の横ッ面をひつぱたく、女が下のくゞりをあけて這ひだしてきて武者ぶりつき椅子をふりあげて力まかせに男に投げつけるのだ。女は殺気立つと気違ひだつた。ガラスは割れる、徳利ははねとぶ。男はあきらめて口笛を吹いて帰つて行く。好色多淫、野犬の如くであるが、亭主にだけは妙に意地をはるのである。
 男は立派な体格で、苦味走つた好男子で、汚い女にくらべれば比較にならず、客のなかでこの男ほど若くて好い男は見当らぬのだから笑はせる。天性の怠け者で、働く代りに女を食ひ物にする魂の低さが彼を卑しくしてゐた。その卑しさは女にだけは良く分り、又、事情を知る私にも分るが、ほかの人には分らない。彼がムッツリ酒をのんでゐると、知らない客は場違ひの高級の客のやうに遠慮がちになるほどだ。彼は黒眼鏡をかけてゐた。それはその男の趣味だつた。
 ある夜更《よふけ》すでに三時に近づいてをり客は私と男と二人であつた。女はかなり酔つてをり、その晩は亭主を素直に泊める約束をむすんだ上で、今晩は特別私におごるからと女が一本男が一本、むりに私に徳利を押しつけた。そこへ新米の刑事が来た。新米と云つても年齢は四十近い鼻ヒゲをたてた男だ。酒をのんで露骨に女を口説きはじめたが、以前にも泊りこんだことがあるのは口説き方の様子で察しることが容易であつた。女は応じない。応じないばかりでなく、あらはに刑事をさげすんで、商売の弱味で仕方なしに身体をまかせてやるのに有難いとも思はずに、うぬぼれるな、女は酔つてゐたので婉曲に言つてゐても、露骨であつた。刑事は、その夜の泊り客は私であり、そのために、女が応じないのだと考へた。
 私はそのときハイキング用の尖端にとがつた鉄のついたステッキを持つてゐた。私はステッキを放したことのない習慣で、そのかみはシンガポールで友達が十|弗《ドル》で買つたといふ高級品をついてゐたが、酔つ払つて円タクの中へ置き忘れ、つまらぬ下級品をつくよりはとハイキング用のステッキを買つてふりまはしてゐた。私の失つた藤のステッキは先がはづれて神田の店で修繕をたのんだとき、これだけの品は日本に何本もない物ですと主人が小僧女店員まで呼び集めて讃嘆して見せたほどの品物であつた。一度これだけのステッキを持つと、まがひ物の中等品は持てないのだ。
 貴様、ちよつと来い。刑事はいきなり私の腕をつかんだ。
「バカヤロー。貴様がヨタモノでなくてどうする。そのステッキは人殺しの道具ぢやないか」
「これはハイキングのステッキさ。刑事が、それくらゐのことを知らないのかね」
「この助平」
 女が憤然立上つた。
「この方はね、私が泊れと言つても泊つたことのない人なんだ。アパートをきいても教へてくれないほどの人なんだ。見損ふな」
 そこで刑事は私のことはあきらめたのである。そこで今度は男の腕をつかんだ。男は前にも留置場へ入れられたことがあり、刑事とは顔ナジミであつた。
「貴様、まだ、うろついてゐるな。その腕時計はどこで盗んだ」
「貰つたんですよ」
「いゝから、来い」
 男は馴れてゐるから、さからはなかつた。落付いて立上つて、並んで外へでた。そのとき女は椅子を踏み台にしてスタンドの卓をとび降りて跣足《はだし》でとびだした。卓の上の徳利とコップが跳ねかへつて落ちて割れ、女は刑事にむしやぶりついて泣き喚いた。
「この人は私の亭主だい。私の亭主をどうするのさ」
 私はこの言葉は気に入つた。然し女は吠えるやうに泣きじやくつてゐるので、スタンドの卓を飛び降りた疾風のやうな鋭さも竜頭蛇尾であつた。刑事はいくらか呆気にとられたが女の泣き方がだらしがないので、ひるまなかつた。
「この人は本当にこの女の人の旦那さんです」
 と私も出て行つて説明したが、だめだつた。男は私に黙礼して、落付いて、肩をならべて行つてしまつた。そのときだ、ちやうどそこに露路があり、露路の奥から私の女が出てきたのだ。女は黒い服に黒い外套をきてをり、白い顔だけが浮いたやうに街燈のほの明りの下に現れたとき、私はどういふわけなのか見当がつかなかつたが、非常に不快を感じた。私達のつながりの宿命的な不自然に就て、胸につきあがる怒りを覚えた。
 私の女は私に、行きませう、と言つた。当然私が従はねばならぬ命令のやうなものと、優越のやうなものが露骨であつた。私はむらむらと怒りが燃えた。私は黙つて店内へ戻つて酒をのみはじめた。私の前には女と男が一本づゝくれた二本の酒があるのだが、私はもはや吐き気を催して実際は酒の匂ひもかぎたくなかつた。女は帰らないの、と言つたが、帰らない、君だけ帰れ、女は怒つて行つてしまつた。
 ところが私は散々で、私はスタンドの気違ひ女に追ひだされてしまつたのである。この女は逆上すると気違ひだ。行つて呉れ、このヤロー、気取りやがるな、と女は私に喚いた。なんだい、あいつが彼女かい、いけ好かない、行かなきや水をぶつかけてやるよ。そして立ち去る私のすぐ背中にガラス戸をガラガラ締めて、アバヨ、もううちぢや飲ませてやらないよ、とつとゝ消えてなくなれ、と言つた。
 私の女が夜更の道を歩いてきたのには理由があつて、女のもとへ昔の良人がやつてきて、二人は数時間睨み合つてゐたが、女は思ひたつて外へでた。男は追はなかつたさうである。そして私のアパートへ急ぐ途中、偶然、奇妙な場面にぶつかつて、露路にかくれて逐一見とゞけたのであつた。女の心事はいさゝか悲愴なものがあつたが、私のやうなニヒリストにはたゞその通俗が鼻につくばかり、私は蒲団をかぶつて酔ひつぶれ寝てしまふ、女は外套もぬがず、壁にもたれて夜を明し、明け方私をゆり起した。女はひどく怒つてゐた。女は夜が明けたら二人で旅行にでようと言つてゐたのだ。然し、私も怒つてゐた。起き上ると、私は言つた。
「なぜ昨日の出来事のやうなときに君は横から飛びだしてきて僕に帰らうと命令するのだ。君は僕を縛ることはできないのだ。僕の生活には君の関係してゐない部分がある。たとへば昨日の出来事などは君には無関係な出来事だ。あの場合君に許されてゐる特権は僕の留守の部屋へ勝手に上りこんで僕の帰りを待つことができるといふだけだ。君が偶然あの場所を通りかゝつたといふことによつて僕の行為に掣肘《せいちゅう》を加へる何の権力も生れはしない。君と僕とのつながりには、つながつた部分以上に二人の自由を縛りあふ何の特権も有り得ないのだ」
 女は極度に強情であつたが、他にさしせまつた目的があるときは、そのために一時を忍ぶ方法を心得てゐた。彼女は否応なしに私を連れだして汽車に乗せてしまひ、その汽車が一時間も走つて麦畑の外に何も見えないやうなところへさしかゝつてから
「自由を束縛してはいけないたつて、女房ですもの、当然だわ」
 もはや私は答へなかつた。私が女を所有したことがいけないのだ。然し、それよりも、もつと切ないことがある。それは私が、私自身を何一つ書き残してゐない、といふことだつた。私はそのころラディゲの年齢を考へてほろ苦くなる習慣があつた。ラディゲは二十三で死んでゐる。私の年齢は何といふ無駄な年齢だらうと考へる。今はもう馬鹿みたいに長く生きすぎたからラディゲの年齢などは考へることがなくなつたが、年齢と仕事の空虚を考へてそのころは血を吐くやうな悲しさがあつた。私はいつたいどこへ行くのだらう。この汽車の旅行は女が私を連れて行くが、私の魂の行く先は誰が連れて行くのだらうか。私の魂を私自身が握つてゐないことだけが分つた。これが本当の落伍者だ。生計的に落魄し、世間的に不問に附されてゐることは悲劇ではない。自分が自分の魂を握り得ぬこと、これほどの虚しさ馬鹿さ惨めさがある筈はない。女に連れられて行先の分らぬ汽車に乗つてゐる虚しさなどは、末の末、最高のものを持つか、何物も持たないか、なぜその貞節を失つたのか。然し私がこの女を「所有しなくなる」ことによつて、果してまことの貞節を取戻し得るかといふことになると、私はもはや全く自信を失つてゐた。私は何も見当がなかつた。私自身の魂に。そして魂の行く先に。

          ★

 私は「形の堕落」を好まなかつた。それはたゞ薄汚いばかりで、本来つまらぬものであり、魂自体の淪落とつながるものではないと信じてゐたからであつた。
 女の従妹にアキといふ女があつた。結婚して七八年にもなり良人がゐるが、喫茶店などで大学生を探して浮気をしてゐる女で、千人の男を知りたいと言つてをり、肉慾の快楽だけを生き甲斐にしてゐた。かういふ女は陳腐であり、私はその魂の低さを嫌つてゐた。一見綺麗な顔立で、痩せこけた、いかにも薄情さうな女で、いつでも遊びに応じる風情で、私の好色を刺戟しないことはなかつたが、私はかゝる陳腐な魂と同列になり下ることを好まなかつた。私が女に「遊ばう」と一言さゝやけばそれでよい。そしてその次に起ることはたゞ通俗な遊びだけで、遊びの陶酔を深めるための多少のたしなみも複雑さもない。たゞ安直な、投げだされた肉慾があるだけだつた。
 さう信じてゐる私であつたが、私は駄目であつた。あるとき私の女が、離婚のことで帰郷して十日ほど居ないことがあり、アキが来て御飯こしらへてあげると云つて酒を飲むと、元より女はその考へのことであり、私は自分の好色を押へることができなかつた。
 この女の対象はたゞ男の各々の生殖器で、それに対する好奇心が全部であつた。遊びの果に私が見出さねばならぬことは、私自身が私自身ではなく単なる生殖器であり、それはこの女と対する限り如何とも為しがたい現実の事実なのであつた。もしも私が単なる生殖器から高まる
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