ために良人と別れた女であつた。否むしろ、良人と別れるために私と恋をしたのかも知れない。それが多分正しいのだらう。
 その当座、私達はその良人なる人物をさけて、あの山この海、温泉だの古い宿場の宿屋だの、泊り歩いてゐた。私は始めから特に女を愛してはゐなかつた。所有する気持もなかつた。たゞ当もなく逃げまはる旅寝の夢が、私の人生の疲労に手ごろな感傷を添へ、敗残の快感にいさゝかうつゝをぬかしてゐるうちに、女が私の所有に確定するやうな気分的結末を招来してしまつたゞけだ。良人を嫌ひぬいて逃げ廻る女であつたが、本質的にタスキをかけた女であり、私と知る前にはさるヨーロッパの紳士と踊り歩いたりしてゐた女でありながら、私のために、味噌汁をつくることを喜ぶやうな女であつた。
 女が私の属性の中で最も憎んでゐたものは不羈独立の魂であつた。偉い芸術家になどなつてくれるなと言ふのである。平凡な人間のまゝで年老い枯木の如く一緒に老いてみたいといふのである。私が老眼鏡をかけて新聞を読んでゐる。女も老眼鏡をかけて私のシャツのボタンをつけてゐる。二人の腰は曲つてゐる。そして背中に陽が当つてゐる。女はその光景を私に語るのであ
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