んなことを考へつくのは感嘆すべきことであるよりも、凡そ馬鹿々々しいことではないか。
 新しい蜘蛛の巣は綺麗なものだ。古い蜘蛛の巣はきたなく厭らしく蜘蛛の貪慾が不潔に見えるが、新しい蜘蛛の巣は蜘蛛の貪慾まで清潔に見え、私はその中で身をしばられてみたいと思つたりする。新鮮な蜘蛛の巣のやうな妖婦を私は好きであるが、そんな人には私はまだ会つたことがない。日本にポピュラーな妖婦の型は古い蜘蛛の巣の主人が主で、弱さも強さも肉慾的であり、私は本当の妖婦は肉慾的ではないやうに思ふ。小説を書く女の人に本当の妖婦はゐない。「リエゾン・ダンジュルーズ」の作中人物がさう言つてゐるのだが、私もそれは本当だと思ふ。
 私は妖婦が好きであるが、本当の妖婦は私のやうな男は相手にしないであらう。逆さにふつてふりまはしても出てくるものはニヒリズムばかり、外には何もない。左様。外にうぬぼれがあるか。当人は不羈《ふき》独立の魂と言ふ。鼻持ちならぬ代物だ。
 人生の疲労は年齢には関係がない。二十九の私は今の私よりももつと疲労し、陰鬱で、人生の衰亡だけを見つめてゐた。私は私の女に就て、何も描写する気持がない。私の所有した女は私の
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