で、逃げださねばならなかつたのだ。
 私達はある地方の小都市のアパートの一室をかりて、私はたうとう女と同じ一室で暮さねばならなくなつてゐた。私は然しこれは女のカラクリであつたと思ふ。私と同じ一室に、しかも外の知り人から距《へだた》つて、二人だけで住みたいことが女のねがひであつたと思ふ。男が私の住所を突きとめ刃物をふりまはして躍りこむから、と言ふのだが、私は多分女のカラクリであらうと始めから察したので、それを私は怖れないと言ふのだが、女は無理に私をせきたてゝ、そして私は知らない町の知らない小さなアパートへ移りすむやうになつてゐた。
 私は一応従順であつた。その最大の理由は、女と別れる道徳的責任に就て自分を納得させることが出来ないからであつた。私は女を愛してゐなかつた。女は私を愛してゐた。私は「アドルフ」の中の一節だけを奇妙によく思ひだした。遊学する子供に父が訓戒するところで「女の必要があつたら金で別れることのできる女をつくれ」と言ふ一節だつた。私は、「アドルフ」を読みたいと思つた。町に小さな図書館があつたが、フランスの本はなかつた。岩波文庫の「アドルフ」はまだ出版されてゐなかつた。私は然
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